インタビュー「ピアノとわたし」(30)
佐藤祐子先生
プロフィール
桐朋学園大学在学途中の1973年から1982年までパリ留学。フォンテーヌブローアメリカ音楽院などで学ぶ。パリ・エコール・ノルマル卒業。宇都宮短大、洗足学園大学講師歴任。一般社団法人全日本ピアノ指導者協会(ピティナ)正会員。ピティナ・ピアノコンペティション審査員、ベーテン音楽コンクール審査員。
インタビュー
―いつも、ご指導をありがとうございます。先生からは、折々、お話を伺ってきましたが、今日は、インタビューの形で、時に沿って、先生のピアノ人生を語っていただければと存じます。よろしくお願いいたします。まずは、ピアノとの出会いからお聞かせいただけますか?
母はピアノの道に進みたかったのだそうですが、結婚後はピアノをやめたので、その夢を私に託したようです。桐朋学園子供のための音楽教室に幼稚科から通ったのもそのためです。東洋英和の幼稚園で讃美歌を歌ったり、早く亡くなった父の残したLPレコードを聴いたりする毎日でした。子供のための音楽教室は当時、英才教育全盛期で、私は病弱だったので、ついていくのは大変でしたが、母が毎週教室に連れて行ってくれ、何とか音楽の道に進む流れを作ってくれました。
小学校6年生のとき、毎日コンクールを受けることになり、井口愛子先生のお宅での5人ほどの生徒さんの集団レッスンに通ったことが、大変刺激になり、初めて音楽の世界に足を踏み入れた思いがしました。毎日コンクール小学生の部の本選ではショパンのワルツ7番とスカルラッティのソナタ(作品番号は忘れましたが、ニ長調と変ロ長調の2曲だったと思います)が課題曲でした。井口先生宅での集団レッスンでの生徒さんが1位から3位を占め、私は奨励賞をいただくことができました。
東洋英和での讃美歌に包まれた穏やかな生活も気に入っていたのですが、桐朋学園子供のための音楽教室で錚々たる先生方の指導を受けることにも手応えを覚え、桐朋女子高等学校(桐朋学園大学の付属高校)に進学しました。東洋英和で讃美歌を歌った経験は、ポリフォニーの感覚を身につけるのに大変役立ったと思います。
―順調に桐朋学園大学に進学されたわけですが、そこで転機が訪れたのですね。
音楽教室や桐朋での英才教育を受けて、絶対音感もありましたし、成績も良かったのですが、
技術重視の桐朋で求められることと、自分が求めていることとが違っているような気持ちが募っていきました。東洋英和で讃美歌を歌った時に感じたような音楽の温かさ、精神的な安らぎを求めながら、満たされない思いでいたところ、桐朋の先輩でフランスのフォンテーヌブローの夏期音楽学校である「アメリカ音楽院」に行かれた方から勧められて、大学2年生の夏に、その夏期講習に出かけることにしました。初めての外国でした。
「アメリカ音楽院」は夏の2ヶ月だけフォンテーヌブローのお城で開講されるもので、ほとんどの受講生がアメリカ人でした。当初は、ロベール・カサドシュのレッスンを受ける予定だったのですが、直前に亡くなられ、奥様のギャビー・カサドシュのマスタークラスに参加することになりました。「アメリカ音楽院」院長のナディア・ブーランジェは、夏の2ヶ月間、フォンテーヌブローのお城に住み、マスタークラスや個人レッスンを行なっていました。ブーランジェの昔の教え子たちが世界中から会いにきていて、彼らが毎週リサイタルを開いていました。学生たちはそれをただで聴く機会があり、最後には、学生自身のコンサートも開催されました。
私は、ナディア・ブーランジェもアメリカ音楽院のことも何も知らないままで講習に参加したのですが、まさにそこに私の求めている音楽があると感じました。講習会では、合唱の時間もあり、東洋英和での讃美歌のことも思い出しました。バルビゾンの森に囲まれた美しい風景の中に建つフォンテーヌブローのお城。プレイエルやガヴォーのピアノの響きが石の建物に染み通っていくようでした。全てが音楽に満たされた素晴らしい生活でした。ブーランジェ先生が弾かれたバッハのフーガを合唱したこともありました。天井の高い石の建物の中での響きは充溢し融和し、その響きが消えるまで、耳を澄ましました。そのような経験の中で、日本では学ぶことのできなかったポリフォニーの真髄について気づきを与えられたように思います。ブーランジェ先生との出会いは、私の人生を大きく変えました。
―素晴らしい出会いですね。
ブーランジェ先生は、フォンテーヌブローでの音楽会の後、音楽会出演者と学生を何人かを呼んで、ディナーを開かれていました。私も3.4回、ディナーに呼ばれました。あまりフランス語も話せなかったのですが、ブーランジェ先生と接する機会が訪れました。そして、「日本の大学を卒業したら、こちらで勉強したい」と先生に申し上げましたら、「あなたは和声の勉強をしなくてはなりません。あなたがここに来たいなら、私は高齢ですから、早く来た方がいい」とおっしゃいました。母に連絡しましたら「そんなに素晴らしい方に出会ったのだから、そうしたら」と後押ししてくれて、急遽フランスに残って勉強を続けることになりました。ブーランジェ先生のご差配によって、私はパリ4区にある芸術家のための施設シテ・デ・ザールに入居することができました。そしてパリで8年を過ごすことになりました。
―ブーランジェ先生からはどのような指導を受けられたのでしょうか?
毎週水曜日、先生のお宅でのアナリーゼのクラスがメインです。世界中から学生・音楽家が集まっていました。音楽を聴きながら、歌いながら、考え、感じ取る、そのような時間でした。なぜここにこの音が置かれているのか、なぜこの音であって別の音ではないのか、そんなことを突き詰めていきます。一つ一つの音の運びとその必然性について考えるのです。物理的な時間と音楽的な時間の違いは何かといったこと。そんなことを自分の演奏にどう落とし込んでいくかということも考えさせられました。自分の演奏について明確に語れる、響きを作れるということを、通常では考えられないほどの時間をかけて教えておられたと思います。作曲家の意図したことを精細に感じ取ることによって、それに向き合う自分が作られていくのです。
毎週1回の個人レッスンでは、和声と演奏のレッスンを受けました。他にキーボードハーモニーというクラスで学びましたが、内容的には、パリ音楽院の伴奏科でのプログラムで、オーケストラ譜の初見、ヴィダルのバス課題、シューマンの歌曲の移調などです。他にブーランジェ先生の助手のデュドネ先生のソルフェージュのレッスンを受けていました。ソルフェージュの音楽も無味乾燥なものではなく、美しいフランス音楽でした。伴奏科の勉強は、演奏家にとって非常に重要だと感じました。音楽の内容や表現力というものを精細に理解し、音楽を享受する喜びが深まっていきました。音楽のアプローチの多様な方法を学ぶことで音楽の感性自体を授けていただけたと思います。
あの時代、リヒテルやカラヤンがいて、そういう人たちの演奏に触れられたのも大きかったです。自分というものがまだ確立していなかった若い時代に、音楽の成り立ちを感じ取ることができたと思います。それは、今に繋がっています。当時、意識してやっていたことが、今は意識せずとも瞬間的に出てきます。感性と知性の融合によって、何も考えずとも出てくる。音楽はそのような瞬間の芸術だと思います。
ブーランジェ先生の妥協のなさは、今も私に残っていて、小学生の指導においてもそれは厳しく求めますよ。先生の弟子にはピアソラもいれば、バーンスタインもいれば、クインシー・ジョーンズもいます。先生は音楽の語法に関する厳格さを持っていらっしゃいましたが、個性を束ねるような厳格さではなかったのです。
ブーランジェ先生と佐藤祐子先生
ーこちらの動画には、フォンテーヌブローでの佐藤先生のショパンのバラード3番の演奏の映像が残っていますね。
An Afternoon in Fontainebleau with Nadia Boulange(6分47秒〜8分08秒あたり)
―帰国されてからはいかがでしたか?
フランスから帰国後、福田靖子先生の創立されたピティナ(全日本ピアノ指導者協会)の審査や演奏研究委員、課題曲選定委員、外国からの先生方のマスタークラスやセミナーの通訳等のご縁で伺った宇都宮短大、洗足学園大学で教えるようになり、ブーランジェ先生の退官後にパリ国立音楽院の伴奏科のクラスに就任されたアンリエット・ピュイグ=ロジェ先生が洗足学園のピアノ演奏研究所に2台ピアノのクラスを教えに来てくださることになった際には、ロジェ先生とお親しかった伊達純先生のご紹介で先生の助手を努めることになりました。まさかそれが、偶然のきっかけで病院に先生をお連れして、検査をしましたら思いがけないピュイグ≈ロジェ先生のご病気が発見されるにいたり、ロジェ先生が即刻フランスにご帰国されることになりますとは、まったく想像だにしない出来事でございました。ブーランジェ先生の助手を長年努められたデュドネ先生は、パリ国立音楽院の作曲科のクラスに留学された故矢代秋雄先生が是非にと芸大と武蔵野音大でソルフェージュを教えに二度ほど日本にいらしております。
ブルノー・モンサンジャン著・佐藤祐子訳『ナディア・ブーランジェとの対話』(音楽之友社 1992年)
矢代秋雄先生は、パリ国立音楽院で作曲をブーランジェ先生のクラスで学ばれた唯一の日本人の弟子でいらっしゃいます。レッスンに初めて伺った時も開口一番「矢代先生を知っているか」と尋ねられ、すばらしい音楽家だと仰って、矢代先生への期待と情熱を感じました。そんな矢先に、風邪のウィルスが脳に感染して急逝された訃報が日本から伝えられ、ブーランジェ先生は大変ショックなご様子でした。デュボアの和声やフランスの音楽書を翻訳されたのも矢代先生です。先生がご存命ならば、『ナディア・ブーランジェとの対話』(ブルノー・モンサンジャン著)を訳すのも矢代先生がなさったはずです。
―先生のお訳しになったこの本は、絶版になってしまっていますが、復刊の希望の声も高いですね。
ブーランジェ先生の生誕150年の年に、すでに帰国していた私のところに弟子の一人で秘書を長年務められたアルマニャック夫人から、是非先生を日本に紹介する好機だから最後の弟子であったあなたにこの本を翻訳してほしいと頼まれました。私の語学力が及ぶか自信がなかったので迷いましたが、デュドネ先生からも手紙がきて、著者のモンサンジャンからは、出版に際してはVan de Veldeの出版社に会いにいくように、と紹介してくださったので意を決して翻訳を始めました。1語ずつ仏仏辞典を引き、ブーランジェ先生がクラスで引用された文学や哲学書の一節を探すなどしまして5年もかかってしまいましたが、私にとっては、先生の音楽理念を反芻することで、より深く学ぶ機会となりました。
私が、日本に帰国した際にはブーランジェ先生の名も知られておりませんでした。ブーランジ先生のもとにはあらゆる楽器の演奏家が世界中から教えを受けようと学びにいらしておりました。私も日本に帰国してからのためにということで、カサドシュ夫人やエコール・ノルマルのムーニエ夫人にピアノの資格取得を得るように勧められ、ブーランジェ先生がムーニエ夫人に手紙を書いてくださり、ブーランジェ先生のご自宅で受講していたキーボードハーモニーのクラスの資格取得のために、当時の学長と副学長のピエール・プティ、ナルシス・ボネ両先生がご自宅にいらしてクラスの試験を受けられたのは、ラッキーでした。
移調のシューマンのリーダーの途中からボネ先生がなんと美声で歌ってくださり、このような経験をさせていただいたことで、本当に音楽の内容についての深い考察と演奏への内省をする習慣ができたようです。
―ピティナやピアノ教室でのお仕事はいかがですか?
帰国してすぐにご紹介いただいた社団法人となったピティナに入りましたら、創立者の福田靖子先生は、フランスの留学経験から学んだことを是非、ピアノを学ぶ子供や学生に教えてほしいと仰いました。福田先生は、学芸大学で音楽教育を学ばれた後に東京工業大学教授のご主人と三人のお子様のご家庭を持ちながらソルフェージュを教えられ、音楽教育に身を投じておいででした。「私はね、音楽的教養と、専門的な技術と能力を持つ、真のピアノ教師の団体をつくりたいのよ! 」 と仰ったのを今でも覚えております。ご縁とは不思議なものです。読譜力に通じる分析や解釈、ソルフェージュや和声やスコアリーディングはピアニストにも共通する必須の音楽の基礎能力です。
このことを更に深めて音楽の民族性についても研究していきたいと思います。更に、妹のリリー・ブーランジェが病で早逝された後ブーランジェ先生がアメリカに渡り、音楽の新開地としてなぜアメリカを選ばれたのか、ということについても考えてみたいと思っております。
―ところで、大学のピアノサークルの先輩で2018年に惜しくも亡くなられた小野順二さんの作品の演奏に取り組ませていただいています。小野さんは工学部で学ばれた方ですが、3曲のピアノ曲が死後出版されています。いずれも珠玉の作品ですが、ただ、この三曲(それも学生時代の)だけが残されたというのが、何か残念でもあり、その三曲だけで、大きな宝であるとも思います。是非、多くの方に知っていただきたい曲です。
小野順二作品集(ミューズ・プレス 2021年)
ナディア・ブーランジェも、その妹でローマ大賞を受賞し夭折したリリー・ブーランジェも、ロマン派から印象派に移行していく時期に自己確立していったわけですが、ロシアの血を引いているということもあってか、彼女たちの音楽には、ただフランス印象派の音楽とは言い切れない東洋的な要素があります。ロシアはアジアに近いのですね。日本人はスラブ音楽をすっとわかるというところがありますよね。一方、小野順二さんは、フランス音楽から強い影響を受けながらも、ピアノ連弾曲「雪舞」における雪の描写や音の使い方に、実に日本的なものが感じられます。音の重ね方は、マネやモネの筆触をも思わせます。1867年のパリ万博には薩摩藩が出展し、ジャポニスムのきっかけとなりましたが、リリー・ブーランジェもその流れの中にあったと思います。こうしてみますと、ナディア・ブーランジェ、リリー・ブーランジェ、小野順二の三者に共通して西洋と東洋の融合が見られる、と思うのです。
―それでは、以後に今後の抱負をお聞かせください。
ブーランジェ先生のもとで学んだフランスでの日々の経験を日本で伝えて行くことが、私の喜びであり、使命だと思っております。
ブーランジェ先生の手の写真に手を重ねて
―本日は、時に沿い、改めてお話を聞かせてくださいまして、ありがとうございました。
(聞き手・安永愛)