インタビュー「ピアノとわたし」(22)

佐藤麻理先生

プロフィール

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ウィーン国立音楽大学弦楽器科コレペティトール(常任講師)。東京藝術大学音楽学部器楽科ピアノ専攻在学中渡欧。2007年によりウィーン在住。「第19回ブラームス国際音楽コンクール・ピアノ部門第1位受賞。Stratos Quartettピアノ四重奏として第15回ピネロロ・トリノ国際室内楽コンクール第1位。その他受賞多数。

インタビュー

―コンサートを終えられたばかりのところ、レッスンでお忙しい中、お時間を作ってくださりありがとうございます。ピアノとの出会いからお聞かせいただけますか。

姉二人がそれぞれピアノとバイオリンを習っていて、私はピアノのみ習いました。両親は音楽家でないのですが、幸いピアノが既に家にありましたので、レッスンに通い始める前から弾いていました。幼稚園で歌った歌を家で弾いたり。

―耳コピができたのですね。

そうですね。姉のレッスンに一緒について行くようになって、5歳で自分も習うようになりました。コンクールなどもすぐに成果を出していましたが、子供ながら無理やり練習しているような所があり、徐々に、好きで弾いているという感覚ではなくなったと思います。とにかく練習はサボりたかった。小学校の頃は、勉強が得意な人、スポーツが得意な人など、それぞれ特技がある中での、私はピアノが得意な人担当、程度に思っていました。「ピアニスト」なんていう単語を発するのも恐れ多く、ピアノを職業にするってどういうことか、正直ピンと来ていなかった。海外の講習会で才能ある同世代と出会った時に感じたのですが、自分が「ピアニストになる」という夢を小さい頃から疑わず、それにかけて一生懸命生きてきている天才達がいるのだと。あぁ私はそういうのとは違ったなぁと。

―幼稚園で聞いた曲を弾いたりとか、そういう風に元々本当に音楽が好きだったということはあるのでしょう?

音楽は好きだったのかもしれないですが、子供の頃はクラシック音楽よりも歌って踊れるポップスを聴いていました。クラシック音楽が好きでたまらないという生活はしてこなかったです。ただ、自分ができることの範囲を越えないといけない、できる範囲で収まっていてはいけないと思っていて、ピアノと音楽を通してなら自分が人間として豊かになれるのでは、と思ったのです。自分が成長するために、何か戦わなきゃいけないと思った時に、ピアノとちゃんと向き合おうと、藝高(東京藝術大学附属音楽高等学校)受験を決めました。青山学院に通っていましたのでそのまま大学まで上がれる学校なのですが、高校進学を前に、一回ピアノを真剣にやろう、受験しようと思いました。皆とずっと同じ環境にいるのも心地良いですが、自分が何か戦えるものが欲しいなと思った時期でもあったと思います。頑張ってみよう、自分を追い込んでみようと、初めて思いました。

―なるほど。具体的には、どのくらい練習なさっていたんですか?小学生の頃は?

私は小学生の頃だと2、3時間も練習していたら良い方でしょうか。全く記憶にないのですが。大体通学の電車の中で学校の宿題を終わらせ帰宅したらテレビを見ながら休んで、ちょっと練習して夕食を食べて、寝る前にまた少し練習、という感じだったと思います。いや、そんなにしてたかな?笑

―小学生でそういう生活ができるっていうのは、特別なことだと思います。

でも小学4年生から5年生に上がる頃だったか、本当にもうピアノから離れたくて一度やめているんです。当時お世話になっていた先生の所を辞め、1年間本当に一切レッスンにつきませんでした。最初は開放感がありましたが、1年経つとやはりどこかで、本当に辞めてこのまま弾けなくなってもいいと思っているわけでは無い、という自分にも気付いて。それから心機一転、小学6年生頃から中学の時は、母が探してくれたユーモア溢れる今泉先生の所へ、横浜から埼玉の所沢まで通っていました。週末のレッスンは母があの長距離をいつも車で送ってくれて。車のクーラーが壊れて灼熱地獄ドライブだった事も。母に感謝です。思い出すと泣いちゃう。すみません。

―そうだったんですね。

その時はまだ、専門で進みたいとは決心していなくて。その先生は、ピアノを弾く喜びを教えてくださいました。いつも明るくのびのびと接して下さり、また弾く事が楽しく思えるようになりました。先生はすごくチャーミングな方でいつも「今時こんな遠くまで通わないで、近くの先生見つけなさいよ∼」と(笑)藝高の受験を考えたとき、藝大の岡田敦子先生を紹介して頂きました。

―急ピッチで受験したという感じですね。

そうですね。藝大に入りたいとなると小学校の時から訓練してきているような人が多い中、遅ばせながら私も急いで特訓してくださって。一緒に受験する男の子もいて、そういう仲間と一緒に頑張って合格できて良かったです。中3の受験直前は学校を休んで練習に集中。あの時は、ものすごく集中して取り組んだと思います。もう自分の責任だと思ってやるしかなかったから、最後の追い込みは頑張ったと自分でも思います。親は多分、そのまま青学で進学した方が安心なのに…とどこかで思っていたのではないかと。(今思えば自分でもそう思いますが 笑)なので絶対受からなきゃという思いもありました。

―藝高に進まれたら、周りはもうピアニストを目指している方ばかりなのですよね。

1学年1クラスしかなくて、各学年40名前後、ピアノとバイオリンも10人ずつくらい、その他チェロ、フルート、ホルン、クラリネットなど。邦楽の専門も数人いました。最初は「ベートーヴェンの○番のソナタのあの部分がさ」とか「あのピアニストの〇〇で撮った録音がいいよね」という話に付いて行けず。それまで学校の友達と音楽の話をしてこなかったから、へー、と聞きつつ、自分はおかしなところに来てしまったと、戸惑いもありました。今まで音楽の話ができる友人が周りにいなかったから、やっとこういう話ができて嬉しい!と喜ぶ人もいる一方私は普段通り「宇多田ヒカルの新曲出たよね」といった感じで、ビートルズとかもMDに入っていたし、通学中はクラシック以外も色々と聴いていました。しかし友達からも環境からも教わることがいっぱいあった。こういうのを聴いたらいいのかとか、なるほどこれが名盤なのかとか。ピアノ科の友達はもちろん、他の楽器の人たちとも仲良くしていました。友達の試験やコンクールで伴奏したり、人と一緒に演奏する楽しみを覚えた。それは藝高に入って初めて経験出来たことです。

―ものすごく濃い3年間だったと思います。もうその時には藝大に行って、と考えていらっしゃったんですよね。

藝高の中にいるとピアノが弾けて当たり前、しかも上手くて当たり前。それで、一瞬自分のアイデンティティを見失いかけました。それまで私は、普通の人間であり特技がピアノ、というざっくりした存在感で良かったところ、藝高にいたら皆が弾けるから。じゃあその中でどういう演奏をするのか、どのような音楽を好むのか、それを皆が見ているようで、きついと感じたこともあります。音楽観でその人の人間性やキャラクターをジャッジされるような気がして。過剰反応だったかもしれませんが。そもそも高校生特有の、自分自身も、自分の音楽も確立されていない。というだけの事ですが、それを既に確立している人もいるわけで。音楽の話をするのが辛く、普通の学校に行っていたらそんなに深掘りせずいられるのだろうかと思う瞬間もありました。(あ、もちろん藝高生も音楽以外の話もしますよ。 笑)

―でも、そういう中で、ご自分で、こういう音楽が好きだ、こういう演奏が好きだな、というイメージは湧いてきたりしましたか?

漠然とですが、音が綺麗で癖がないシンプルなもの。日本の工芸品のように、木と木を組み合わせただけだけれど、中の構造がものすごく精密で、宮大工さんの細工のような。すごく精密なものを重ねてピタッとなって。見た目はシンプルで、中身はものすごい複雑。シンプルを極めた美しさが日本文化の良い所の一つだと思うのですが、そういうことがバッハとかベートーヴェンなど、古典を勉強しているとすごく大事だと感じるようになりました。当然色々と考えて練習しなければならないですけれど、見えてくるところには、ゴテゴテしたものは見せない、そういうのが好きです。私の先生がよく仰っていた「神は細部に宿る」という言葉にも影響されていると思います。声部を細かく見てこのフレーズのこのラインがどこへ向かうのか、音の裏表を疎かにしない、細かい作業ですが大事な事だと思います。

―バッハやベートーヴェンの名前が出てきましたけれど、やはりその当時から古典派が好きだったのでしょうね。

そうですね。もし留学するとしたらドイツかオーストリアに行きたいとは思っていました。フランス音楽やロシア音楽ももちろん好きですけれど。古典派をちゃんと弾くというのは難しい、古典派やバッハをきちんと弾ける人になりたい、という思いがありました。きっとこれも自分の苦手意識を克服したい気持ちがあったのかと思うのですが。人それぞれ音質や特技が違うと思いますが、その中で私は、様々な基礎になっているドイツ古典派をきちんと弾けるように、自分は基礎をもっと勉強しなければいけない、という思いがありました。まだまだ勉強しないといけないですが。

―高校時代に弾かれた曲で印象に残っている曲は何ですか?

ベートーヴェンの「熱情」です。卒業演奏会で弾きました。それからその頃は通学中、クラシックも好んで聴くようになって(笑)ラフマニノフのピアノ協奏曲1、2、3番や、プロコフィエフのバイオリンコンチェルト等、ピアノに限らず純粋に綺麗で壮大だなと思うものを聴くようになりました。

―藝大に進まれましたね。

藝高から藝大へも全員同じように外部受験をしないといけないので、皆力が入っていました。3年間共に切磋琢磨しているクラスメイトなので、もちろん皆で頑張ろうという雰囲気ですが、残念ながら不合格者も出てくる。再度挑戦する人も、そのまま楽器を辞めて違う分野に進む人もいます。この分岐点は紙一重ですが、小さい頃からここまで音楽を一生懸命やっていても、違う方向へ切り替える事が起こる。葛藤があると思いますが、呆気なくも感じて、では自分は藝大へ進学したところで、その後何者になるのか、そもそも音楽家とは、音楽を職業とするとは、、イメージが未だに結び付いていませんでした。

―外からみると本当に憧れの藝大っていう感じですけどね。

藝大は世界から見ても非常にレベルが高いです。その中に自分が身を置けた事はとても有難い事でした。しかしこのまま過ごして、自分がピアノとどうやって生きていくのか想像できず、ただ目の前の事で必死。自分の演奏スタイルが確立している人は説得力があるのですけれど、私にはまだそれがいまいち、自分の特徴とか自分の演奏だなんてよくわかっていなかったように思います。留学してから思ったのですが、日本では間違えちゃいけないとか、こういう風に弾かなきゃいけない、まるで正解があるような、減点をしていく聴き方をする事が多いような気がしました。もちろんミスしない方がいいし、演奏や解釈、こうあるべき、それは違うでしょう、というものはあり、それが勉強をするという事なのですが。

初めてウィーンの講習会でアヴォ・クユムジャン先生(ウィーン国立音楽大学教授)のレッスンを受けた時に、音楽がとても、人の持つあらゆる感情表現として開放されていて。目の前で劇が繰り広げられているような、音楽でこんなに表情や色が出せるのかと。先生の演奏やエネルギーを感じ取って、本場でウィーン・フィルも聴いて、ビシビシ刺激を受け興奮気味に日本に帰りました。しかし日本でしばらくするとまた、呑気で平穏ないつも通りの自分に戻っちゃうんですよね。もっと音楽で自分を出さなくてはと思った感覚を忘れて小さくまとまってしまう。

―それは、先生の問題?それとも環境的な問題?

完全に自分の問題です(笑)環境としては、よく言われている事だと思いますが、日本語は英語やドイツ語に比べると抑揚が少なく、更に日本での感情表現も皆穏やか。ドイツ語のような冠詞や強いアクセントも子音も少ないので言語のリズム感も当然違います。道で突然怒って大きな声で怒鳴り散らす人も気分よく歌い出す人も少ない。当時はとにかくアヴォ先生の情熱パワーに必死に付いていけたらと思い留学を決意しました。それが19歳の終り頃。藝大2年生の時、20歳になってウィーンへ来ました。先生のエネルギーを若いうちに浴びることができたのは、とても有難い財産だと思っています。バッハやベートーヴェンのような精緻な音楽も、繊細なのに熱い。小技はいっぱい詰まっていて、全て綺麗な音で、それこそ「神が細部に宿る」。そこへ先生の熱い感情が乗っている。たまに顔を真っ赤にして爆発しそうなくらいに。アルメニア系オーストリア人の先生は、戦争を心から憎み、世界情勢や政治の在り方に怒っては、世界の様々な事に心を痛めている方です。それでも強く生きていかねばならないのだと、自分も周りも音楽で鼓舞し、喜怒哀楽が全部音に込められている。これは楽器の先生ではよくある事なのですが、こちらの状況も音や表情で全部把握されてしまう。レッスンでお医者さんに会っているような気分の時もありました。挨拶と演奏の状態で、なんともないと思っていたはずなのに「どうしたの?」なんて聞かれて、心理的な部分を言い当てられるような。東北の震災が起きた後のレッスンも、遠く離れてただ無力で落胆する私に、何も言わず色々と演奏して聴かせて下さったり、レッスンで一緒に音楽に集中することでセラピーを受けたような、浄化されるような事が何度もありました。アヴォ先生は音楽を「言語」の一つとして教えてくれたと思います。そういうことを通じて、表現すること、表現する手段がだんだん身についていったという気がします。

―勉強だけでなく生活もあるでしょうから大変ですよね。

留学したいと一念発起したウィーンの講習会中の話ですが、ちょうど出会った藝大の先輩が留学を終えて帰国されるタイミングで、その方の部屋を引き継ぐ事を約束できました。ピアノも置いてありましたし本当に運が良くて。そしてウィーンもドイツもですが、学費があまりかからない。EUの人は無料だし、EUじゃない人に対しても当時はそんなに高額ではなく、むしろ当時は日本の学費よりも安い。これならば経済的にも交渉の余地有りかと(勝手に)家も決めてるし、まず両親にウィーンから国際電話しました。留学をさせて頂きたいのですが・・・と。困惑していたと思いますが、最終的には私が突然自分で変化を起こそうとする事は珍しいから、と送り出してくれました。

―同時期にウィーンにピアノの勉強にいらっしゃる方はいましたか?

当時は藝大の同期はいなかったですが、少し後にバイオリン科の同期が来ました。同時期にモスクワやドイツに留学していた藝大の友人とは、時差も気にならないし、よく連絡を取ってお互い支え合っていました。ウィーンでは心身ともに助けてくださる先輩方もいて、有難い事です。

―ウィーン国立音楽大学にはいろんな国から来ていますか?

多国籍でアジア人も多いですが、東欧からの留学生も多い印象です。ポーランド、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなど近いので。スロバキアやスロベニアは電車で通える距離ですし。アジアの人とはやはり感覚や表現の仕方がちょっと近いのもあり仲良くなりやすいですが、色んな国の人と接することが出来ます。

―ウィーン音楽大学で、学部・修士・ポストグラデュアーレと進まれるのですね。

インタビューでの佐藤麻理先生(ウィーン国立音楽大学近くのカフェで)

インタビューでの佐藤麻理先生(ウィーン国立音楽大学近くのカフェで)

はい、アヴォ先生がピアノ室内楽の教授ですので、ピアノ室内楽科で学びました。室内楽科とは名ばかりで、実際先生のレッスン内容は自由ですので主にソロが多く、コンチェルトや室内楽まで幅広いレパートリーを勉強出来ました。ポストグラデュアーレは、レッスンのみ受講出来る課程です。卒業後そこに籍を置きながら日本でのソロの演奏や、ウィーンではカルテットや伴奏の仕事などを中心に活動してました。その頃は、ピアノを続けても就職先がなかなか無いという薄々気付いていた現実についに打ち当たり、どうしようかと思っていました。ピアノ以外の楽器奏者だとオーケストラのオーディションをとにかく受けまくる頃なのですが、ピアノはそういうもいかない。フリーランスで演奏活動と伴奏の仕事だけではなかなか不安定ですし、私もやはりオーケストラ団員のような安定した収入の軸となるものが欲しいなと現実的に思うようになりました。恐らく万国共通でピアニストに迫り来る壁なのですが、しかし海外で更に難しい。ドイツ語圏内か、はたまた日本へ帰らざるを得ない状況になるかもしれないと。日本での生活も音楽とは関係のない仕事をする事も視野に入れて考えていました。しかし自分はピアノしか弾けない。(笑)私にとっては誰かにピアノを教えるのは難しく、それよりは自分が弾いている方が好きだと思いました。室内楽やリサイタルに出演しながらネットワークを広げ、自分に出来ることを増やしているうち、ここ(ウィーン国立音楽大学弦楽器科コレペティトール)の常任講師としての空きが出て、2回目の採用試験で合格しました。本当に運が良かったと思います。しかしベテラン同僚の先輩方はなんだか体調を崩されていたり心身共に疲弊している方も多い気がして、これはきっと大変なお仕事なのだろうと、始まる前は戦々恐々でした。

―演奏家としても活動しつつ教育をなさるというのは、なかなか大変なことかも知れませんね。

学校でひたすら仕事としてピアノを弾くだけになってしまうと、どの仕事でもそうだと思いますが、好きでやっていたはずでも同じ繰り返しだと嫌になる時もあるかも知れません。色々な学生や先生に出会えて、成長を見届けられる事は嬉しいですが、やはり人間同士、大勢の生徒とそれぞれ一対一で接するというのはエネルギーを使います。勉強になる事も多々ありますが、演奏家としての成長と、自分の生活と、学生に寄り添う、という気持ちと体力、バランスを保つのが難しいのかもしれないです。

―コレペティというのはオペラの練習にピアノ伴奏で付き合う、という仕事ですか?

日本ではコレペティと言えばオペラの伴奏ピアニストとして知られていますが、弦楽器や管楽器の伴奏ピアニストもコレペティと呼びます。私は弦楽器科でバイオリンとビオラクラスのコレペティを担当しています。ソナタやコンチェルトなどの伴奏が日々必要なので、私は一緒に演奏しながらコーチングをしているといった感じです。ウィーンフィル等オーケストラの入団オーディションでの公式伴奏もします。オペラのコレペティは演奏はもちろん、イタリア語もドイツ語もロシア語の発音も、そしてオペラ全体をわかっていないといけない、全く別分野の勉強が必要になってきます。

―佐藤先生のお仕事は、相当なレパートリーがないと務まらないですね。

はい、最初はとにかく次から次へと譜読みしてはリハーサルして本番、というひたすらピアノを弾いている日々でした。だいぶレパートリーも経験も増えて落ち着いて来て、今となっては本当にこの仕事が自分の天職だと思っています。長年モヤモヤしていた、自分にとってのピアノと生活する事、音楽との葛藤が少しクリアになった気がしますし、現状とりあえず、やっと、ウェルビーイングです。(笑)仕事は好きなのですがこちらでもワークライフバランスの問題はあります。強い意志を持って休める時に休み気分転換をしないと、仕事と家を往復するだけの生活になってしまう。今は、自分の次の段階のウェルビーイングをどのような状態にしたいか考えている所です。車の免許を取ったり、最近は趣味として弓道を始めました。一つ一つの丁寧な動作や地道な鍛錬など、音楽とも繋がる部分が多々あるなと感じています。

この2月は時間と気持ちに余裕ができましたので、気になるコンサートをたくさん聴きに行きリフレッシュしました。普段は仕事で音をたくさん聴いて、更にコンサートへ行く頭の余裕がなかなか無いのですが。東京だとコンサートが終わった後に満員電車に揺られてすぐに喧騒の中、余韻に浸ることが難しい気がするのですが、ウィーンは音楽会の後も何故かゆったりとした気分で家路に着くことができます。世界の音楽家もきっとウィーンを特別に思っていて、連日のように素晴らしい方々が演奏しに来る、やはり音楽の都なのだなと。こちらに来て、ベートーヴェンやブラームスやシューベルトが住んでいた家、彼らのお墓が横並びになっているのを見て、彼らが実際ここに生きていた人達なのだと身近に感じる事が出来ます。この道も散歩したのかなとか。当たり前のことですが音楽はいち人間が作ったものなのだということを実感出来た気がします。

壮麗なウィーン楽友協会大ホール

壮麗なウィーン楽友協会大ホール

それから、こちらはダブルディグリーも珍しくなくて、医学や法律の勉強をしながら同時に音大に通う学生もいたりします。日本のように多数が18歳で大学に入って卒業後就職するという流れでもないので、年齢差もあり、自由にそれぞれが自分のタイミングを見つけて成長しているのだなと思います。

ピアノ・トリオのコンサート

ピアノ・トリオのコンサート

―そうなんですね。まだまだお話を伺いたいところなのですが、最後の質問です。佐藤先生のお好きなピアニストは?

実はあまり「好きなピアニスト」を日々で意識しておらず満遍なく聴いているのが正直なところなのですが、ツィメルマンです。職人気質で完璧主義みたいなところが。演奏会があればできる限り聴きに行くようにしています。先日アルゲリッチを聴きましたが80代とは思えないパワーと機敏で妖艶な歌い回しが本当に素晴らしかったです。それから、ミケランジェリのCDは本当に音が綺麗でよく聴いていましたし、ウラディミール・トロップ先生のCD、キースジャレットのショスタコーヴィッチの録音もお気に入りです。

(左)ファツィオリの置かれたウィーンの旧市庁舎のホール。(右)同ホールのコンサート後、くつろぐ佐藤先生。

(左)ファツィオリの置かれたウィーンの旧市庁舎のホール。(右)同ホールのコンサート後、くつろぐ佐藤先生。

―今日はお話を聞かせてくださってありがとうございました。先生の意志の強さに圧倒されました。先生とウィーンは必然で結ばれていると感じます。今度は先生の演奏も拝聴したいと思っております。

ありがとうございました。

(聞き手・安永愛)