インタビュー「ピアノとわたし」(21)

小澤実々子先生

プロフィール

小澤実々子の写真

藤枝順心高等学校非常勤講師、静岡大学教育学部研究支援員、OZAWA MUSIC ピアノ講師。第19回「静岡の名手たち」合格。ソロ・アンサンブルで意欲的に活動している。

インタビュー

―今日は、ありがとうございます。先日(2024年1月31日)は、ピティナ公開録音コンサートでクーラウの珍しいソナタ(Op.46-3)の素晴らしい演奏を聴かせていただきました。

―まずピアノとの出会いからお聞かせいただけますか?

私の母は自宅でピアノ教室を開いておりまして、私を産んで間も無くレッスンに復帰したそうです。授乳しながらレッスンしていたこともあるそうです。母の膝に抱かれて、生徒さんたちのレッスンを聴いているとか、レッスン中の母の膝で昼寝していたというのが、私の最初の記憶です。

―ピアノを始められたのは?

とにかく、レッスンに来ているお姉さんたちが羨ましかったみたいですね。2歳半か3歳頃、まず「レッスンごっこをしてほしい」と母にお願いしたらしいんですよ。おままごと的な感じで。玄関から入って、「今日はバッハをよろしくお願いします」と楽譜を渡してみたりとか。

―バッハ、という名前は知っていたのですね。

そうですね(笑)。レッスンごっこがピアノの始まりですね。それから自然と母にピアノの手解きをしてもらうようになりました。3歳くらいの頃です。何曜日の何時にレッスン、というのではないですね。生活の中で、遊びの延長のようなものでしたね。私も母もそうだったと思います。

―ご両親は、音楽の道に進ませたいというご意向はあったのでしょうか。

父もトランペット奏者で高校で音楽を教えていました。ですから、両親ともに音楽家でしたので、それだけに音楽の道が大変だということを知っていて、私が音楽家になることに反対していたんですよ。小さい頃、私が「将来ピアニストになる」と言ったら「大変だし無理だからいいよ」とそんな感じで。私は他の道を知らなかったと思うんですよね。自分からピアニストになると言った割には、そんなに練習していなくて(笑)。まあ、でもとにかく、ピアノのレッスンだったり、母の弾くピアノだったり、父のトランペットだったり、いつも楽器の音で家が満たされていて、その中で育った感じです。

―ピアノの発表会なども出られていたのですか?

最初のピアノ発表会での小澤先生(3歳)とお母様

最初のピアノ発表会での小澤先生(3歳)とお母様

そうですね。最初の発表会では、赤いドレスを着て弾いたな、ということは覚えているんですが、何を弾いたかは覚えていません(笑)。母と連弾でした。まあ、ピアノは緩やかに続けていた感じです。母も、「ピアニストになると言っているけれどまあそのうち諦めるだろう」くらいに思っていたと思います。

4年生くらいまで母からピアノの手ほどきを受けていたのですが、親子ですから、素直に母の指示を聞けなくて、レッスン中に喧嘩するようになってしまいました。小学校4年生の終わり頃に私がピアノの道に進みたいと母に言ったら、静岡大学で教鞭を取っておられた山下薫子先生(現在 東京藝大教授)のレッスンに連れて行ってくれました。

―いかがでしたか。

それまで、なんとなくピアノをやっていたのですが、山下先生は、美しい音の出し方や音楽の作り方など、本当に大切な部分を、何もわかっていなかった私に丁寧に教えてくださいました。今こうしてピアノを続けているのも、山下先生がいらしてこそだと思っています。

―ピアノの場合「音色」というのは、なかなか注意が行かないところがありますよね。鍵盤を叩きさえすれば、音は出てくるわけで。

そうなんですよね。山下先生には無理なく美しい音で弾くということをしっかりと教えていただいたように思います。美しく音を鳴らすことがいかに難しいことか。ピアノに対する見方も変わりました。

―そうしたことを小学校の5年生から教えていただけるというのは素晴らしいことですね。「音色」ということを丁寧に考えるようになったのは、ずっと大人になってからのことだったような気がします。

それまで私は、音大を目指すような方がやるべきことをやらないできたんです。ハノンをやって、チェルニー30番をやって40番に進んで…というようなことですね。そうしたこともきちんと教えて下さいました。それでもまだまだ自分は足りなかったと思います。お恥ずかしい話ですが、練習していなくてよく怒られていました。今考えると、あの素晴らしい先生についていながらなんて勿体無いことをしていたんだろうと思います。山下先生についた時点で、音大を目指す、という前提ではあったのですが。

―小澤先生は清水南の中高一貫校に進まれたのですね。

はい、今は無くなってしまいましたが、当時は、清水南の中等部にも音楽科がありました。小学校の5年生か6年生の頃、母の知り合いのお宅に清水南のパンフレットがあり、それを見て是非進んでみたいと思いました。自分で決めました。

―中学入試にも音楽の試験があったのですね。

はい。ピアノの実技と、簡単なソルフェージュの試験です。

―進まれていかがでしたか?

中学の時は一学年80人で、そのうち音楽科は8人くらいでした。音楽の道を目指す友人たちがいるのは、とても嬉しいことでした。音楽科といっても、普通科の生徒たちと同じクラスでした。卒業演奏会や、高校生がいる中での演奏の機会がありましたし、他校との交流の中で音楽科の生徒が演奏するという機会もありました。

―中学校の頃は、どのような曲を弾かれていましたか?

中学の最初の実技試験でモーツァルトの「きらきら星変奏曲」を演奏したのを覚えています。他にラヴェルの「ソナチネ」が好きでした。

―高校はいかがでしたか?

高校からは芸術科が1クラスできて、音楽科が16人、美術科は20人くらいでした。高校ではいろいろな楽器を弾く生徒たちがいましたから、他の楽器とアンサンブルする機会がふんだんにありました。芸術科の他に特進クラスというのもありました。朗読とピアノのユニットを組んでいるSPACの宮城嶋遥加さんは特進クラスでしたね。

―彼女は、芸術に触れる機会が多い環境で中高を過ごすことができてとても良かったとおっしゃっていましたね。

中学に「表現」という授業があって、普通科の生徒も身体表現や音楽表現など、確かに芸術に触れる機会の多い学校でした。私は音楽科に進んで、同じ志を持っている仲間たちと過ごせたことがとても良かったと思います。

―大学は静大に進まれたのですね。

はい。一年目は音大を目指しましたが、不合格でした。再受験するつもりではいたのですが、浪人中の夏に参加した講習会で、周りの人たちの上手くなって上に行こうというような、非常にギラギラしたというか、競争的な部分に馴染めないものを感じました。私はこういう世界は向いていないかも、と思ってしまったんです。コンクールも苦手でした。競争社会に向いていないなって、そういうふうにも感じていました。それで心が折れて、講習会から帰ってきた時には、東京の音大は受けない、地元で進学すると親に伝えました。静岡大学教育学部には、芸術文化課程もありましたので、そちらに進むことにしました。

―静大の教育学部はいかがでしたか。

演奏家を養成するというより、教育者を養成する場所なので、幅広く音楽に接することができる一方、ピアノの実技の専門的な個人レッスンも受けることができました。良いとこどりな感じでしたね。個人レッスンでは最初は、根木真理子先生のもとで学び、その後、赴任された後藤友香理先生にご指導いただきました。

―根木真理子先生のご指導はいかがでしたか?

とにかく、自由に弾かせてくださいました。生徒の自主性を尊重するという感じで、のびのびと演奏させてくださいました。

―静岡大学の芸術文化課程に進まれて、のびやかに学ばれたという感じなのですね。

そうです。地元の総合大学で幅広く学びながら音楽に取り組めたのが良かったです。2年生から師事した後藤先生に出会えたことも、静大にきて良かったことの一つだと感じています。先生は教鞭をとりながら演奏活動も続けられていて、ピアニストとしてのリアルな感覚を伝えてくださいました。結果的に、静岡大学に進学したことは良い選択だったと思います。

―小澤さんは、大学2年生の時に、第19回「静岡の名手たち」のオーディションに合格されていますね。「静岡の名手たち」というのは、静岡に縁のある演奏家が公開オーディションで選出されるというものですね。毎年AOI静岡音楽館で開催されていますね。

はい。オーディションは大学2年生の5月に受けたのですが、大学1年生の頃から山下先生に選曲のアドバイスなども頂きながら準備を始めました。

―「静岡の名手たち」は様々な楽器奏者や歌手が対象で、毎年数名しか選ばれませんから、オーディションに合格するというのは並大抵のことではないですね。オーディションでは何を弾かれたのですか。

デュティユーのソナタです。

―素晴らしいですね。何か宗教性も感じられる曲ですね。どうやって暗譜するんだろうと思うくらい難解な現代曲でもありますよね。あの曲を自分のものにするというのは大変なことだと思います。挑戦してみよう、というお気持ちもあったのでしょうか。

そうですね。私にとってはすごくチャレンジングな曲でしたが、この選曲が良かったのではないかと思います。弾いていくうちに新しい世界が開けていくような感覚でした。ありがたい曲をいただきました。

―静大の卒業演奏会では何を弾かれたのですか?

ショパンの「バラード4番」です。学生のうちに取り組んでおかなければならない「大曲」だという気がしていました。

―卒業後は?

藤枝順心高校で音楽の非常勤講師をしています。コーラス部の指導にも関わっています。7年目になりますが毎年新鮮ですしとても勉強になります。特にコーラスに触れるようになってから、声部の重なり、ハーモニーの作り方など、自分の演奏に活かせることをたくさん学んでいます。音楽の根本は歌なんだな、と感じます。指揮の先生のもと、私は伴奏者を務めています。話が戻りますが、中高の頃、他の楽器を演奏する生徒とアンサンブルをする機会がたくさんありました。その経験が大きかったと感じています。歌、オーボエ、クラリネット、トロンボーン、チューバなど本当に多彩でした。高校3年生の時は、サマーコンサートと卒業演奏会と2回の演奏会があったのですが、高校2年生が3年生の伴奏をすることになっていました。アンサンブルはとても好きでした。

―印象に残っているアンサンブル曲はありますか?

どの友人との共演もいい思い出ですが、印象に残っているものを一つだけ挙げるとすれば、ヴァイオリン専攻の友人と演奏したチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲の第3楽章です。ちょうどその頃、このままピアノをやっていていいのかな、と進路に悩んでいたんですが、この曲をアンサンブルしているうちに楽しくなって、やっぱり音楽はいいな、と思えたんです。彼女とは今年デュオリサイタルを行う予定です。

―その方とのリサイタルの曲目は決めていらっしゃるのですか?

メインはフランクのヴァイオリン・ソナタです。他に、ブラームスやリヒャルト・シュトラウス、シマノフスキの作品を演奏します。

―充実したプログラムで楽しみですね。

もうすぐチラシも出来上がります。それから、6月に上演される静岡県オペラ協会のモーツァルト「コジ・ファン・トゥッテ」で、稽古ピアニストを務めさせていただいています。

ーオペラというと、譜面の量も相当でしょうね。

稽古で使うヴォーカルスコアは428頁あります。

―大変ですね!

―小澤さんは、お母様がお書きになった『シベリアのバイオリン コムソモリスク第二収容所の奇跡』という御本をもとにした朗読音楽劇でピアノ演奏されていますね。御本が出版されたのが2019年。DVDは2020年の作成ですね。

(左)「シベリアのバイオリン」DVD(右)「シベリアのバイオリン」収録風景

(左)「シベリアのバイオリン」DVD(右)「シベリアのバイオリン」収録風景

清水南高校の同窓生である宮城嶋遥加さんが声をかけてくれました。ちょうど、コロナで、ホールや劇場での公演ができなくなっていた頃です。生の演奏がお届けできない、それなら、DVDでお家で観られるようなものを作ればいいのではないか、ということになったんです。静岡県の助成金をいただくこともできました。コロナ禍でできることをやろう、ということだったんです。宮城嶋さんの企画力や実行力を尊敬しています。

―お母様がお書きになった御本は、お父様についてのこと、小澤さんのお祖父様に当たる窪田一郎さんについてのお話なのですね。一郎さんは本当に音楽が好きで、自分で楽器を作ってしまうほどバイオリンに憧れて、楽器を弾くことが「国賊」だ、などと言われていた戦時中、バイオリンを自由に弾きたい一心で、叔母さんの勧めもあって満州に渡るのですね。お祖父様はそこで終戦を迎えるのですが、ソ連の捕虜としてシベリアに連行されてしまい、酷寒の中、過酷な労働に耐え、でもその中でも希望を失わず、端材でバイオリンを作り、楽団まで作ってしまうのですね。苦難を乗り越え、お祖父様は戦後3年を経て帰国され、やがてお母様がお生まれになるわけです。お母様がこの本をお書きになろうと思われたきっかけが、パリ旅行中の時差ボケでテレビもラジオもなくホテルの静寂の中、横になっていた時に、無性に音楽が聴きたくなった、という体験だったそうですね。その時、戦時下で音楽を貪欲に求めていたお父様のことがわかったように思ったと・・・小澤さんには、そうしたお祖父様やお母様の音楽への愛が受け継がれているのですね。

そうかもしれないですね。私は祖父に会ったことはないのですが、母から色々と話を聞いていました。そういうことをずっと意識してきたわけではないですけれど、こうして静岡で演奏活動を続けているのも、いろいろなご縁があってのことと思っています。親戚のおばさんには「おじいちゃんは音楽が本当に好きだったから、実々子ちゃんがピアノを弾くようになって喜んでるよ」と言ってくれる人もいます。母は音楽の道に行くことを強制せず、でも私のやりたいことを尊重してくれました。

朗読劇の音楽については、宮城嶋さんが、ここにこんなイメージの音楽がほしい、と指定してくれました。祖父が愛していたベートーヴェンの交響曲「田園」は大切なモチーフとして入れました。最後は、「主よ、人の望みの喜びよ」を入れました。平和が訪れると良いな、という思いも込めました。これは母がよく一人で弾いていた曲です。子供の頃からよく耳にしていました。母はレッスンだけでなく自分の演奏活動でも忙しくしていましたから、私は祖母に面倒を見てもらうことが多かったのですが、当時よく遊んでいたシルバニアファミリーのおもちゃを見ると、今でも母が練習するピアノの音が聞こえてくる気がするんです。リビングで遊んでいた時に母はいつも練習していて、一緒に遊んでもらいたいのに遊んでもらえない。そういう寂しさもあったと思うんですが。自分でも演奏活動を行うようになって、その時の母の大変さもわかるようになりました。

―これから、ヴァイオリンのコンサート、オペラの準備でお忙しいことと思いますが、最後に、好きなピアニストを教えてください。

アンスネスとツィメルマンです。

―今日は、ピアノを中心に、三代にわたるお話をお聞かせくださってありがとうございました。

(聞き手・安永愛)