インタビュー「ピアノとわたし」(11)

西村友樹雄先生

プロフィール

西村友樹雄の写真

フランス文学専攻。一橋大学修士課程修了。2020年、パリ・ナンテール大学にて博士号取得。一橋大学、慶應大学、一橋大学、東京経済大学他非常勤講師。

インタビュー

―先生は、2020年6月に、パリ・ナンテール大学に「アンドレ・ジッドの『ショパンについてのノート』と その時代 :「ロマン主義的」音楽家に立ち向かう「古典 主義的」音楽家?」と題したフランス語の博士論文を提出されました。どのようにして先生がこのテーマに出会われたのか、興味深く思いました。先生はどちらのお生まれですか?

生まれは東京です。でも公務員だった父の転勤に伴って、生まれてすぐに岐阜県の高山市に引っ越しました。それから大阪の守口市、東京の品川、秋田県の能代市と移り、それから東京に戻ってきまして、パリ留学を経て、今現在、東京の三鷹に住んでいるという次第です。

―そうでしたか。ピアノを習っていらっしゃったとのことでしたが、いつ頃からですか?

4歳で始めて中2くらいまで習っていました。

―レッスンは10年くらい通われたのですね。かなりしっかり身についたでしょうね。

いえ、あまり練習は好きではなくて。でも、中学校では校内で合唱コンクールがあって、その時は伴奏者に指名されていました。下町の学校でしたから、そんなに習っている人は多くはなくて。他のクラスは大体女子が伴奏していましたが、男子で伴奏する、というのを先生も歓迎してくれて、指名がかかったんです。

―どんな曲の伴奏をされたか覚えていますか?定番の「大地讃頌」?

はい、「大地讃頌」は和音の連続で難しくて、かなり練習して仕上げたので記憶に残っています。こちらの曲は、結局別のクラスメートが担当しました。他には、ロシア民謡の「黒い瞳」を合唱曲に編曲したバージョンを弾いたのを覚えています。

―幼い頃からお父様の転勤に伴って引越され、転校も経験されたとのことですが、東京に戻ってこられたのは、どのタイミングでしたか?

中2の8月です。

―学年半ばの転校って辛くないですか?私も父の転勤に伴い、中2の2学期に転入しました。それから、中学受験のない地域に住んでいて、中学受験しなかった、っていうのも共通しますね。

でも、能代市にいた頃、転勤で中学受験があるかも知れないからというので、四谷大塚の通信講座みたいなのは取っていたんです。

―なるほど、そんな講座があるんですね。首都圏の子供達を見ていると、中学受験が過酷なので、それを回避できたのは良かったのかも知れない、と個人的には思うことがあります。

そうかも知れないですね。僕は中2の半ばで江東区の公立中学校に転校したわけですけど、中学受験で成績上位層はスポッと抜けてしまっている集団で、クラスはまあ色々ありましたが、部活のブラバンは平和だったり(パーカッション担当でした)、あるいは塾で友達ができたりして楽しかったです。

―私は、中2夏休みの転校後は暗黒時代でしたから、それは羨ましいです。高校はどちらに?

開成です。勉強が楽しかったというのも幸いしていたのかもしれません。ただ、勉強ができる人たちばかりなので、勉強以外のことを頑張ろうというのもあって、海外の文学なんかを読んでいました。ドストエフスキーとジッドをよく読んでいました。開成にはオケがあって、今度はコントラバスを担当していました。

―音楽は、ずっと続けていらっしゃったのですね。海外の文学を読まれるようになったきっかけは?

高校の先生が「課題図書」というので挙げてくれていた中に、海外の小説が入っていて、読んでみたら面白くて、それから色々読むようになりました。

―大学に進まれる時には、海外の文学を勉強したい、というイメージはあったのですね。

そうですね。ロシアにするかフランスにするか、というのは迷っていました。

―大学ではフランス語を選択されたのですね。

はい、僕が大学に入ったのは2005年のことですが、80年代から90年代にかけての日本の文化に共感があって、その当時活躍していた人の中にフランス文学や思想関係の人が目立っていたというのもあります。大学ではジャズ研に入りドラムを担当していました。この間亡くなった坂本龍一なんかもその時代の人というイメージで、フランスの音楽に影響を受けていますよね。もう少し前の世代の寺山修司も好きでした。フランス語の履修は最低限のコマ数で、他にロシア語を取っていました。結局、ロシア語の方はものにはなりませんでしたが。

―でも、キリル文字を読める、というだけでも違いますよね。

まあ、文字を読めるということはありますね。

―一橋大学の社会学部に進まれて、ここは細かな学科とかコースはないのですね。

そうですね。3年次にゼミを決めることになるのですが、僕は中野知律先生のゼミに入りました。最初は、フランス語の上達を目指しているという方と二人だったんですが、途中から隔週交代みたいになったため、ゼミで中野先生と一対一ということが多かったです。

―プルースト研究で著名な先生ですね。それは、なんとも贅沢ですね。でも、学部生としては、毎回指導教員と一対一というのは、プレッシャーもあったでしょうか?

中野先生は、穏やかな方で、怒ったりされることもないですしね。毎回一緒にテクストを読んでいく、という感じでした。

―卒論からジッドを取り上げられたんですね。

僕は、特にジッドの『法王庁の抜け穴』という作品が好きでした。とても馴染んだんですね。それでジッドを研究対象にしようと思いました。卒論では『鎖を離れたプロメテウス』を取り上げました。そして、修士課程で『法王庁の抜け穴』をテーマにしました。

ジッドの旧邸の写真とジッド終焉の地の写真

ジッドの旧邸(左)と、ジッド終焉の地(右)

―ジッドのショパン論のテーマに辿り着かれたのは、博士課程に上がってからですか?

そうです。ジッドの小説作品の至る所に音楽のモチーフがあるわけですが、ジッドがまさに音楽論を残しているので、それは面白いと思ったんですね。指導を受けていた森本淳生先生のお導きもありパリのナンテール大学比較文学科に留学したのですが、講座には、音楽を研究対象とされる先生が二人いらっしゃいました。同じ学科の中に文学の専門の方と音楽の専門の方が両方スタッフとしていらっしゃって、文学と音楽がジャンル的にも風通しの良さがある。それは日本の大学にはないことだったと思います。

―フランス留学をされていかがでしたか?

大学都市本館

大学都市本館

実は、そんなにフランスに行きたいとは思っていなかったんです。あくまで活字として展開されるジッドの文章、小説世界が好きだったわけで、フランスへの憧れがあったわけではなかったと思います。留学するまで、じゃんぽ〜る西『パリ、愛してるぜ〜』というパリ生活を描いた漫画とか、フランスに留学した日本人を主人公とした遠藤周作の小説『留学』(時代は違いますが)とか、フランスでの生活は大変だ、厳しいぞ、というタイプの書物や情報に沢山触れていましたから、実際行ってみたらそれほどではないとわかってホッとする、みたいなところがありました。フランスでは、大学都市(パリ南端14区にある広大な敷地に、各国所有の学生寮37棟、図書館、レストラン、グランド、体育館、プール、コンサートホール等各種施設が揃っている)のインド館に入居し、次にスイス館(コルビジェ設計)に移りました。大学都市ではコンサートや講演会など、毎日のように文化的なプログラムが開催されていて飽きなかったですね。

スイス館の模型・スイス館のアルプホルン

スイス館の模型(左)とスイス館のアルプホルン(右)

インド館からの眺め(左)とスイス館のインスタレーション(右)
インド館からの眺め(左)とスイス館のインスタレーション(右)

ジッドのショパン論をターゲットに博士論文を書くと決めたものの、どういうアプローチを取ればいいのか、なかなかわかりませんでした。最終的に、第1章でショパンを古典主義者として捉えるジッドのショパン論の特質と、ジッドが「古典主義」の語に託したものについて論じ、第2章でフランスにおけるショパン論の系譜を論じ、第3章では、ジッドのショパン論への評価・反響、またジッドが批判の的としていたアルフレッド・コルトーのショパン演奏を分析して、ジッドのショパン論の位置付けを行いました。この3部構成以外はありえなかったと今では考えていますが、進めている途中は、全くどうなるのか見えていませんでした。

―フランスに行ったからこそ接することのできた資料や文献というのもありましたか?ジッド研究というとITEM(近代文学手稿センター)の方に通われていたんですか?

いえ、音楽雑誌を中心に調べていましたから、リシュリュー(パリ2区)にある「音楽部門」の図書室に通っていました。

―あの、楽譜確認用にピアノも置いてある図書室ですね。フランスには何年いらっしゃったのですか?

4年半ですね。帰国してから博士論文完成まで、あと3年くらいかかりました。ですから、今でもパリは、どうしても博士論文を仕上げなければならない義務の場所だったというイメージが強くて、何か純粋に観光のような気持ちになれないところがあります。留学時、ショパンがサンドやその子供たちと共にバカンスを過ごしたノアンの館を訪れました。パリから電車で2時間くらい、そこからバスが出ているのですが、まさに田園風景です。

ショパンの部屋(左)とノアンのピアノ(右)

―マジョルカ島はいかがですか?

あそこは、なかなか苦しそうな場所でもありますよね。ショパンとサンドの逃避行の場所で、当時、ショパンは体調不良で。その中でもショパンはプレリュードを書き継いで行ったと言いますが。大学の授業で『作家の恋文』という小倉孝誠先生の編集された教科書を使って、その中のサンドからショパンへ別れを告げる手紙を読みましたが、なかなか面白いですよね。

―サンドは未練を残しつつも啖呵を切る。あの強がり方ね。サンドのフランス語って、論理的には滅茶苦茶なところがあるんですが、とても感情が生々しく伝わってくる。

本当になんとも切ないけれど、サンドの人柄が伝わってきますね。ショパンの方の手紙は殆ど残っていないので、サンドの手紙から二人の関係を想像する他ないわけですが。やはり途中から娘のソランジュと息子のモーリスが大人になって、母親と結婚するでもない、よくわからない関係の男が同じ屋根の下にいて、それが問題の元になってくる。長男は家を継ぐ立場と思っているから、ショパンを敵視した。サンドは、腹を痛めて産んだ子なのに娘のソランジュが自分のことよりショパンの言うことを聞くのが許しがたかったんですよね。ソランジュが素行の悪い彫刻家(オーギュスト・クレサンジェ)と結婚したのが背景にありますが。

―先生の博士論文は大変興味深いものです。ジッドはショパンを「古典主義者」として捉えるのですが、ジッドの「古典主義」というコンセプトには「エリート主義」「反ロマン主義」「文化的ナショナリズム」の3つの含意があるのだと、実に明晰に指摘されています。

インタビュー時の西村先生

インタビュー時の西村先生

ジッドはフランスでは少数派のプロテスタントで、自分は神に召されてミッションを背負っているのだ、という召命観がある。ジッドが14歳の頃のエピソードですが、道を歩いていたら、カナリアが自分の帽子に舞い降りてきたことがあった。ジッドはそれを自分が選ばれた人間であることの徴しと受け止めたわけです。自分は神に選ばれし人間であると。ジッドは古典的作品というのは選ばれた「public 公衆」によってつくられるものだ、要求の高い「public」の存在がなければ存在し得ない、という風に考えていた。だから彼はNRF(『新フランス雑誌』)を創刊して、優れた読者層を作り出し、それに応える作品を掲載、発表するという循環を作り出そうとしたわけです。音楽についても、やはり同じように本当によく聴く耳を持った聴衆が大切だと考えていたと思います。

―ジッドのショパン論を読むと、本当にピアノを弾いていた人ならではの表現に溢れていると感じます。

そうですね。「どんな作家の作品よりも、私はショパンの楽譜と長い時間を過ごした」とジッドは記しているのですが、まさにそうだったと思うのです。でも、そのジッドが1933年には「ピアノを蓋を閉める」のです。コミュニスムに接近して、ピアノというのは、ブルジョワ的産物に他ならないから、許しがたい、と感じるようになったそうです。

―あんなにピアノが好きだったのに、驚くべきことです。

とはいえ、戦争のため1942年に疎開したのがきっかけで、またピアノを弾くようになるんですが、その時には、ブランクのせいでもう指が思うように動かなくなっていたと。年齢のせいもあったかもしれませんが。友人たちもジッドのかつてのような演奏が聴けなくなって残念がっていたようです。

―ジッドは1948年に、『ショパンについての覚書』を出版することになるわけですね。

ショパン論の片鱗は、1892年に「シューマンとショパンについての覚書」を構想した頃からある。ですから、1869年生まれのジッドの大人になってからの人生の殆ど全ての時期に、このショパン論というテーマは随伴しているのです。

―同時代のピアニストのショパンの弾き方は間違っている、と断言するところもすごいですよね。

コルトーの演奏は間違っている、と頑なですよね。一方でジッドは、自分の理解できないことに対する拒絶感が強かったようにも思います。ショパンの故郷のポーランドに深く根ざしているマズルカやポロネーズはきちんと論じていないんですよ。「ポロネーズはショパンの本領ではない」と片付けたり(笑)。

―ピアノも弾く作家・哲学者の書く音楽論はとにかく面白いですよね。ロラン・バルト然り、ウラジーミル・ジャンケレヴィッチ然り。サイードも随分ピアノが弾けたらしいですし。

自身ピアノを弾く哲学者であるフランソワ・ヌーデルマンが書いたLe Toucher des Philosophes : Sartre, Nietzsche et Barthe au piano(邦訳『ピアノを弾く哲学者 サルトル、ニーチェ、バルト』)なんていう本もありますね。音楽家としてのニーチェという視点、またニーチェのエピソードも興味深い。サルトルがショパンのノクターン3番を弾いている映像から話が展開されたりしてスリリングです。

―文学と音楽のテーマでピアノに限定しても、ほんとにテーマが尽きないですよね。今後ともピアノとウェルビーイング研究所にて、よろしくお願いいたします。

―本日はありがとうございました。

(聞き手・安永愛)