インタビュー「ピアノとわたし」(28)
中山慎人先生
プロフィール
すみやグッディ(株)勤務。社団法人日本ピアノ調律師協会会員。ヤマハ認定コンサートピアノ技術者・調律師。2023年にCD「高原の朝〜ミューズアサギリのテーマ〜」をリリース。
インタビュー
―先日は、ミューズ・アサギリのサロンでの三雲はるなさん・小林海都さんのコンサートを楽しませていただきました。調律や録音でお忙しくされていて、お声をかけそびれたのですが、本日は、インタビューにお越しくださいましてありがとうございます。このインタビューでは、是非調律師の方にお話を聞きたいと思っていたのですが、今回、初めてとなります。
―よろしくお願いいたします。さて、中山さんはどちらのご出身ですか?
浜松で生まれ育ちました。以前は浜北市といっていたところですが、合併されて浜松市になりました。5歳でヤマハ音楽教室に通い始めました。
―楽しく通われていましたか?
はい。楽しかったですね。ヤマハ音楽教室は、グループレッスンで、歌も歌いますし、エレクトーンなどの鍵盤楽器、打楽器などにも触れます。アンサンブルをしたりもします。聴音もあって、音楽の総合的な力をつけていく感じですね。楽譜の読み方も習いますけれど、耳から入っていく感じですね。そこで、幼児科。ジュニア科と進んで3年くらい教室に通い、そのあと、ピアノの先生の個人レッスンに通い始めました。
―なるほど、そうですか。当時、音楽の習い事では、男の子は少数派ではなかったですか?
そうですね。今はそうでもないと思いますが、当時はやっぱり男の子で音楽の習い事は少数派ということになりますかね。やっぱり外遊びやスポーツの方が好きな子供が多いでしょうし。ヤマハ音楽教室でも、学年が上がると男の子の割合が下がってきていました。
―なるほど。中山さんは、兄弟はいらっしゃいますか?
3人の男兄弟で、私は一番上です。弟たちもヤマハ音楽教室に通いましたが、途中でやめていました。野球の方に力を入れていましたね。私も外遊びは大好きだったんですが、ヤマハ音楽教室に通うのは楽しかったんです。普段の教室では5〜6人の生徒がいましたが、発表会となると40〜50人の生徒が集まって、合同で合奏したりする機会もありました。ヤマハ音楽教室は、同じくヤマハが主催しているジュニアオリジナルコンサートを意識したものになっていると思うんですが、楽器を弾くだけでなく、曲を作ることを後押しするようになっているんですよね。
―ジュニア・オリジナルコンサート!私はヤマハ系列の教室には通わなかったのですが、ピアノの先生からジュニアオリジナルコンサートの入賞者の演奏を録音したカセット・テープをいただいたことがあります。小学生くらいの方が、本当に素晴らしい自作曲を演奏されているんです。今も活躍されている西村由紀江さんの作品も入っていました。心底驚きました。こんなに才能に溢れたお子さんたちがいるんだと。
ヤマハの教室には、そういう素晴らしい曲を自分で作り出す、そういうモデルというのが共有されていたように思います。
―なるほど。そういうことなのですね。ジュニア・オリジナルコンサートは、ピアノだけでなくエレクトーンの作品や演奏も披露されていましたね。
はい。エレクトーンはヤマハの製品でもあります。ヤマハ音楽教室ではクラシックだけでなくポップス的なものも取り入れられていたんです。ポプコンというのもありましたよね。あれもヤマハの主催です。
―はい。懐かしいですね。ポプコンの勢いはすごかったんですよね。ラジオと連携していましたよね。ポプコンからは多くのアーチストが輩出しましたね。
今、考えると、私はヤマハ音楽教室で習ったことが一番のベースにある気がします。ピアノの個人レッスンに通いましたけれど、バッハやベートーヴェンを練習するというのは、それほど好きではなくて。ピアノという楽器はとても好きで、ピアノで曲を作るというのが一番好きなことだったんですね。ヤマハ音楽教室のカリキュラムというのは、よく考えられていると思います。曲を作れるようになる基礎が織り込まれていたと思うんです。今思うと、よくあんなに小さい頃に、難しいこをやっていたもんだと思います。ポピュラーやジャズの要素も入っていました。
―浜松の教室で学ばれたということは、全国展開するヤマハ音楽教室の総本山みたいなところで学ばれたというわけで、教室の先生の熱意も高かったのではないかと想像いたします。
そうだったと思いますよ。
―中学の部活は?
野球部です。
―それはガチ部活ですよね。
そうなんです。野球部は日曜日に練習試合があります。そうすると、ピアノ教室との掛け持ちはできないんですよ。それで、中2で、ピアノのレッスンに通うのはやめました。ヤマハのグレードは6級くらいまで取ったところでした。ところが、ピアノを男子だけれど弾く、となると、何かというと先生が「お前弾け」ということで、何かと伴奏を頼まれたりして、学校でピアノを弾く機会が結構あったんですよ。多分、学年でピアノを弾く男子は一人ではなかったのかな。
―なるほど、そうですか。腕の立つ女子生徒さんもいらっしゃったかもしれないですね。
男子生徒でピアノを弾くというのを、すごく歓迎されていた感じなんですよね(笑)。
―それは面白いですね。
それから、学校で、曲を作らされる機会があったんです。夏休みなどに宿題として、美術でも音楽でもいいから、何か作品を提出しなさいということで、音楽だと曲を作るわけです。作曲コンクールにも出品していたと思います。それから、作った曲がお昼休みに校内放送で流されていたりもしました。応援歌も作曲させられました。作詞もさせられたんですよね(笑)。
―そうでしたか。学校の中で作曲というのが推奨されもし、身近なものだったのですね。うちの子供たち(22歳、19歳)の小中では、作曲する、という課題は出ていたかな、そういうのは見聞きしていない気がします・・でも私も米子の公立中学校にいた頃(1978年)、何かのコンクールのために、曲を作った(作らされた)覚えがあります。その頃は水泳部にいたのですが、隣町の中学校の水泳部のエースの女の子がNHKの素人さんが自作曲を披露する番組がありましたが、そこに出ていて、びっくりしたことを覚えています。
「あなたのメロディー」ですね。
―そうでした。日曜日の11時くらいから放映されていた番組ですね。懐かしいです。今、そんな番組は成り立ちそうにないですよね。よくわからないのですが、ポプコンなり「あなたのメロディー」なり、公立中学校での作曲の宿題なり、あの70年代あたりというのは、何か素人でも曲を作る、っていうようなエネルギーが社会全体に満ちていたんでしょうかね?
明らかに、現代とは違うエネルギーがありますよね。今は、YouTubeで個人的に好きなものを配信できたり、いろんなんものを視聴したりすることができますけれど。
―中山さんは、野球部員でありかつアノを弾いたり作曲したりという中学生活だったわけですね。高校では?
軽音楽部に入って、ピアノを弾き、曲を作っていました。
そうなんですよね(笑)。高2の時には、先輩がボーカル、私がピアノのデュオでポプコンに出場、東海大会で入賞しました。20際の時には、ソロで出場しました。
(左)高校2年で出場したポプコン東海大会でのインタビュー時の中山さん(右)20歳の時出場したポプコンでソロ弾き語りの中山さん。
―そうでしたか。中山さんは、調律学校に進まれることになるのですが、いつ頃から、その進路を考えていらっしゃったのですか?
高3の頃ですね。大学進学という選択肢もあったわけだけれど、勉強したいものがあったわけではなかったし、ピアノに関わることを仕事にしたいと思いました。かといってピアニストになるというのは無理です。調律師という仕事ならピアノに関わり、音楽を作ることに繋がっていけると思ったんです。
―調律学校はいかがでしたか?
調律学校は浜松にあり、1年で訓練していきます。訓練学校のようなものです。一人一人に一台ずつピアノが与えられて、各工程を学んでいくんです。もちろん講義形式の授業もありましたが、基本的には訓練する場です。
―手が動かなければどうにもならないわけですよね。
それから、何より音を聴くということができなくてはならないです。
―なるほど。そこも訓練なのですね。やはり音楽が好きな方が調律学校にいらっしゃっているのですか。
そうですね。音楽が好きだったり、ピアノを弾かれたりしてきた方が多かったです。
―調律師の学校には何人くらいいらっしゃっていましたか?
私が調律学校に入学したのは1985年のことですが、当時は100人いました。今は毎年15人です。1980年がピアノ販売台数のピークなのですが、まだ今と比べると沢山売れていた時代です。
―1年間の訓練を終えられると、直ちに仕事に就かれるわけですね。
はい、すみやに就職し、静岡に配属になり、以来ずっと静岡で勤務しています。今は嘱託という形ですが。
―そうでしたか。ずっと浜松で生まれ育って、静岡にいらっしゃった時、違和感はなかったですか?
やはり、ちょっと気質が違うんですよね。静岡はよくいえば上品で穏やか。静岡は城下町ですし。色々と踏まえておいて言葉を慎まなくては、というような感じもあるかな。
―浜松の「やらまいか」精神と比べると、静岡はおっとりしているのかも知れないですね。
でもまあ、ずっと静岡で調律師としての仕事を続けていたわけなんですが、あるとき職場の上司にピアノの講師をしてはどうか、講師の認定試験があるから受けないか、と言われたんです。自分ではそんなこと考えません。ピアノの講師になるなんて考えたこともなかったですが、まあ言われたので、それではトライしてみようかと、その認定試験の準備をしたりしました。
―それは独学で?
そうですね。
―ピアノの講師のお仕事はいかがですか?
私は、大人の生徒さんをもっぱら教えています。初めて習われる方もいらっしゃれば、子供の頃に習っていて、長年たって再開される、定年退職を機に始められる、とかいった生徒さんがいます。親の希望で通っているようなお子さんと違って、ご自身の意思でレッスンに通ってこられるのですから、基本的なモチベーションは高いですから、そこは助かります。ただ、頑固だったりして、なかなか素直には吸収していただけない、という場面もあります。講師としては、生徒さんが弾いていて楽しい、と感じていただけるように導けることを大切にしています。ただ難しいですね。楽しく弾ける、美しく弾けるようになるためには、厳しいことや耳に痛いことも言わなくてはならない場面もあるのですが、そこをどこまで言うか、悩むこともありますね。バランスですけれど。
―調律師のお仕事についてはいかがですか?
ピアノを一番いい状態に持っていく、というのが調律の仕事で、それは、コンサートホールでも個人の家のピアノでも変わりません。でも何がいい音か、何が良いタッチか何が理想か、というものを自分の中に持っていないと、できない仕事だと思います。理想に近づけていくのは、果てしないものがあります。これで終わり、ということはないんですね。『羊と鋼の森』という調律師を主人公にしたお話(小説・映画)がありますが、共感するものがあります。理想の果てしなさ、というのですかね。
―奥深い仕事ですね。
自分の理想の音というのはあるけれど、お客さんに喜んでもらう、満足していただけないとなりません。お客さんから、「もっと明るく」とか「もっと軽く」とかいった指示をいただくんですが、それを実際調律に落とし込むのは、なかなか難しいことなんです。音とかタッチとかは、目で見えるようなものではないですからね。調律が終わったところで、お客さんに弾いていただくわけですが、その時、「いいね」と喜んでいただけるのが一番の喜びです。良いと思っていなくても納得していなくても「いいですね」と言うかも知れないし、素晴らしいと思っても何も言わないこともあるかも知れません。言葉は繕えますけれど、むしろ表情ですね。表情には本当のところが現れている気がするんです。
―なるほど。調律を終えたピアノを弾いた方のお顔に自然と笑顔が浮かんだら、確かにそれが本当のサインですね。
調律といっても、ピアノだけではなくて、舞台のどの位置に置くと響きが良いか、といったことも吟味します。
ここがいい、と指示してこられる方もいらっしゃいます。
―非常にデリケートですね。音響の良し悪しの判断というのは。ところで、この間、ミューズ・アサギリの演奏会では、第一部と第二部の間にも調律をなさっていましたね。本番直前に調律しても、気になるところが出てくるものなのですね。
何もしない時もあるんですが、少しでも気づいたことがあったら、最善の状態になるよう調律します。ですから、演奏会の時は、リラックスして本番を聴いていることはできません。演奏するのはピアニストですが、私も音を作る部分を担っているわけで、それがうまくいっているかどうか、それをずっと気にしているわけです。何も悪いことが起こらなければそれでよし。そんな感じなんです。
―調律師の方が、そんなふうにご自身の調律された舞台のピアノを本番でそのように聴かれているとは、想像したことがありませんでした。
―中山さんは「高原の朝〜ミューズアサギリのテーマ〜」というCDを、ご自身で作曲・ピアノを担当され、バイオリニストの三雲はるなさんとのデュオ作品としてリリースされていますね。ポストクラシカルというのか、ポップス的な軽やかさもあり、ベースにクラシックが感じられる、まさに、高原の朝のように、さわやかでとても心地の良い音楽です。
CD「高原の朝〜ミューズアサギリのテーマ〜」(音束のwebサイトより引用)
ありがとうございます。まあ、とにかく曲を作るというのがとても楽しいんです。あのCDの曲を作った際は、ミューズ・アサギリのサロンのオーナーである三雲はるなさんのお母様から依頼があって、テーマがはっきりしていましたから、ある意味で作りやすかったですね。また、はっきりとした締切が定められていたわけではありませんし。
―そうですか。作曲というのは、ご自身の中から溢れ出すように、というものかと思っていましたが、外からの働きかけというのがきっかけになるのですね。
そうですね。全て自分で選んでいい、全て自由となると、かえって混沌として、何をどうしたらいいかわからないということもあるじゃないですか。ですから外部・他人から「これこれ」と指示を受けて、それに合ったものを作っていく、というのがやりやすいです。
―なるほど。中学校で応援歌の作曲・作詞もなさったとのことでしたが、これも「応援歌」という趣旨がはっきりしているから作れる、ということがあるわけですね。高校の頃にバンドでポプコンに出られたということでしたが、今もバンド活動は続けていらっしゃるのですか?
その時の先輩とではないですが、高校時代の友人や、調律師の仲間、その友人と、ピアノとベース・ドラムのバンドを組んでピアノを担当し、曲も作っています。曲を作るにあたっては、他人に受けようというのではなくて、自分の好きな音楽を作る。そして、それに共感していただけるのが一番と感じています。
―それは楽しそうです。ところでコロナ禍では、演奏会も減り、アンサンブルやバンド活動する機会も奪われて皆が過ごしていたわけですが、この時期はどうしていらっしゃいましたか?
もう、本当に、その頃は演奏会という演奏会がキャンセルされ、仕事がガクッと減りました。
―バンドのお仲間とはリモートで合奏されたりしましたか?
それはしませんでした。2年間はほとんど何もできなかったという感じですね。
―コロナ禍を通して、生の音とか、同じ空間で音楽を共有することの意味が問われているように感じています。そうしたテーマを教育学部の石川眞佐江先生が取り上げていらっしゃいますね。
今、生の音から離れて、YouTubeで音楽を聴くようになってきたりもしているけれど、それは、生の音をコンサート会場で聴くというのとはかなり違った、対極的とも言っていい体験だと思いますね。確かに、どんな曲なのか、ということはYouTubeの動画でもわかるわけですが、生の音だったら、特にポップスなど、足元から響いてくるようなそういう体感も伴っているわけですよね。
―ホールで音を聴くというのは、耳だけのことではなくて、全身的な体験という感じがします。包み込まれるというのですかね。
そうですね。とにかく、私はピアノという楽器、その音が好きで、その音をもっとも美しい状態に持っていくことが喜びです。
―調律師・ピアノ講師・作曲家というお立場でピアノに関わられている方というのは、稀ではないでしょうか。インタビューをするたびに、本当にピアノとの向き合い方も人それぞれだと実感しますが、中山さんから、また新たなピアノのウェルビーイングの形を教えていただいたように感じております。「ピアノとわたし」(13)でご登場くださった「音束」の中山絵理さんのパートナーでいらっしゃって、ご家庭も音楽で満ちていることと思います。本日は、誠にありがとうございました。
(聞き手・安永愛)