インタビュー「ピアノとわたし」(23)

永井基慎先生

プロフィール

永井基慎の写真

パリ国立高等音楽院ホルン科及びコントラバス科伴奏助手。東京藝術大学音楽学部器楽科ピアノ専攻を経て渡仏。パリ国立高等音楽院ピアノ科、室内楽科、歌曲伴奏科、伴奏科、ピアノ伴奏科の各科を了。ピアニストとして、各地でソロ、アンサンブル演奏。CD「バルトーク:ヴァイオンとピアノのための作品集」(マグナレーナ・ゲガとの共演)「5つの韻文」(サクソフォンのカルロス・サラゴサとの共演)をリリース。

インタビュー

―本日は、貴重な帰国期間にありがとうございます。先日のコンサート(2024年4月7日中板橋 マリー・コンツェルトでの読響コンサートマスターでヴァイオリニストの戸原直氏とのデュオ・コンサート)は素晴らしかったです。最初のドヴォルジャークの「4つのロマンティックな小品」で鷲掴みにされまして、続くベートーヴェンのスプリングソナタ、フォーレのソナタ1番と泣かずに聴かなくてはと気合いを入れておりました。

戸原直氏(読売日本交響楽団コンサートマスター)とのデュオリサイタル終演後

戸原直氏(読売日本交響楽団コンサートマスター)とのデュオリサイタル終演後

ありがとうございます。天気も良くてちょうど近くの石神井川堤の桜も満開で、僕にとっても印象深いコンサートとなりました。

―ピアノとの出会いからお聞かせください、

母が家でピアノを弾いておりまして、自分では覚えていないのですが、練習を邪魔しに来るようになったんだそうです。じゃあ、レッスンに通わせようか、ということで4歳の頃に一音会に入会して、ピアノ、リトミック、聴音、絶対音感、ソルフェージュ(相対音感)のレッスンを受けるようになりました。家でも、母の弾く和音を当てるといったことをしていました。

―ピアノのレッスンに通われるようになって、すぐに没頭されるようになったのですか?

すぐ没頭したからは分かりませんが、飲み込みは早かった方かも知れませんね。小さかった頃のことですが、親戚がパリに留学することになって、留学の下見の頃から数年にわたって、母と年に何度かパリを訪れていました。地下鉄の独特の匂いや、なぜだかパンクした車が多かったこと、石畳が多かったことなど、子供心に焼き付いています。オランジュリー美術館のモネの睡蓮の絵が気に入って、家でもそんな絵を描いてみたりしていました。親戚とヴィレット公園でディズニーオンアイスを見に行ったり、科学産業に連れて行ったりしてもらい、隣にあったパリ国立高等音楽院(以下パリ音楽院)も訪れました。偶然ですが藝大よりも先に足を運んだのではないかと思います。白い校舎が印象的で、ピアノを勉強するならフランスではこの場所なんだなと、その時なんとなく心に刻まれたのだと思います。自分が将来行く場所だとはまだ思っていたわけではないと思いますが。

―随分と早い時期に、パリが視野に入っていたわけですね。ピアノのレッスンを続けられて、発表会やコンクールには出ていらっしゃいましたか?

発表会は出ていましたが、コンクールに出るようになったのは割と遅くて小学校4年生の時です。結果が出始めるようになったのは中学校2年生からです。私にとってはコンクールより、藝高の受験と藝大の受験が大きな関門で、大変な試練でした。4年生から当時藝大で教えていらした長尾洋史先生の指導を受けていました。小学校4年生で藝高ピアノ科への進学は意識していました。長尾先生はパリで学ばれた方で、アンサンブルにも造詣の深い方です。先生に教えていただいたことは大変大きかったと思います。それから、小学校4.5年生のとき、フランス・サヴォワ地方のクールシュヴェルでのセミナーに出かけたんです。講師のコンサートが毎晩のようにあって室内楽のシャワーをいっぱい浴びました。そこで聴いたドヴォルジャークのピアノ五重奏第2番(Op.81)が大好きで、パリで楽譜を買ってもらいました。家で音を鳴らしてみて心躍りました。そういうことが今に繋がっている気がします。

小中と通っていた学校は英語教育に比較的力を入れていました。小学校からしっかり英語の授業があり、中学の頃は、毎日英語の宿題が出ていたのですが、学校にいる間に済ませて、帰宅したらピアノの練習に集中できるようにしていました。英語が比較的得意な科目になってきていたので、さらにアテネ・フランセに通ってフランス語と英会話の勉強も続けていました。

―それはすごいことですね。アテネ・フランセに中学生はあまりいないでしょう?

そうですね。大人の方ばかりでした。今思うと、中学生の頃は、あまり話の合う友人はいませんでした。少し変わっていたかも知れませんね。

―音楽の道を目指して集中されていたでしょうから無理もないと思います。藝高はいかがでしたか?入試では何を弾かれたのですか?

平均律は課題曲の一つでした。何番だったか・・・長尾先生とも話したことがあるんですが、二人とも覚えていないことが判明して(笑)。ベートーヴェンのソナタは弾くことになっていて3番を全楽章準備しました。それから、ショパンのバラードの2番を弾いたことを覚えています。

藝高は楽しかったですね。皆が音楽を目指していて、音楽の話ができるし、専攻楽器の種類も豊富でアンサンブルをする仲間もすぐに見つかる。戸原君がブラームスのヴァイオリンソナタ1番(雨の歌)をやろうと声をかけてくれて一緒に弾いたことも思い出深いです。ただ、嫌だったのは、とあるコンクールの時期になると学校中が少しピリピリした雰囲気になることですね。かなりの数の生徒が受けるのです。誰が受かったかとか、1位になったとか。シビアな世界でした。

―永井さんは、藝大に入られて、その年にパリに渡られているのですね。

藝高から藝大への進学は自然なことですし、私もその道を志望していました。パリ音楽院へはいつかは行きたい、ひいては当時教授をされていたジャック・ルヴィエ先生に師事したいというのはあったのですが、受験回数は3回までという規定があり、ピアノ科の入学年齢制限が割と厳しいので、逆算すると藝大受験と同時期に受け始めないとならない、と思ったんです。フランス語については、高3の春にB1(フランス国民教育省認定のフランス語資格。仏検2級レベルに相当)を取っていましたが、パリ音楽院の受験1回目では受かるとは思えなくて。藝大受験とパリ音楽院受験を同時に準備することについては、「危険だ」ということで、わざわざ高3の年末にお電話くださった先生もいらっしゃいました。でも、長尾先生は背中を押してくださって、両方の受験準備をしました。2月にパリ音楽院の試験があったのですが、合格発表の日程については、入試の本選参加人数によって前後するなど、フランスらしく事前には大体のところしかわかりません。両方準備する他ないわけです。結果的にはパリの合格発表は当初の予定より早く行われ、藝大の一次試験が始まる前日に合格通知をいただいたんですが、今度は藝大を落ちてはいけない、と気合が入りました。

―藝大受験のために1月半ばのセンター試験も受験なさって、2月に渡仏して練習場所も確保して受験して、2月25日、26日の藝大入試、とそう考えただけでも大変です。

パリ音楽院受験の際には、楽器店の貸スタジオのほか、オペラ座すぐ近くにヤマハアーティストサービスヨーロッパというのがあって、そこを利用することができました。パリ音楽院に1回目の受験で受かるとは思っていなかったのですが、幸運でした。パリ音楽院の新学期は9月ですので、4月から8月までは藝大に在籍して、フルに授業に出席しました。その時期にたくさんの仲間を作り、それが今にも繋がっています。数ヶ月しか藝大にいなかったのに、よくそんなに繋がりがあるね、と言われたりもするのですが。

―藝大とパリ音楽院とで、ピアノの教育についてどのような違いをお感じになりましたか?

そうですね。入試の時も、何を評価しているのかが違うように思います。日本の場合は、技術的にとにかくきちんと弾けていて、それをさらに音楽的に磨いていこうという順番で、技術的な完成度というのが厳しく問われているように思います。パリ音楽院の場合は、何か光るものがあるかどうか、というのを見ていて、光るものがあれば、それをもっと磨いていこう、とそういう感じですね。技術や基礎に多少の隙があっても、そこは後から、または日本ほど重要視していない、というような。余裕というか鷹揚さを持って取り組む感じがあります。

それからこれは音楽史についてですが、よく覚えているのがまずクープランやラモーなどが日本以上にクローズアップされるんです。やはりこのあたりは日本での教育とは違いますよね。

―そうですね。バッハ以前というのは、あまりきちんと教えられていない印象です。

―永井さんは19歳でパリ音楽院に入学されて、ずっとパリを拠点にされていますが、やはりフランスが合っていたのでしょうね。

パリ音楽院の教育レベルが高くて、良き師、友人に恵まれ、そのネットワークの中で音楽に打ち込めるというのが一番の理由です。最初は、個人レッスンのフランス語はわかっても、講義形式の授業についていくのは大変でした。最初はちんぷんかんぷん。でも一生懸命辞書を引いたり、単語帳を作ったりして慣れていきました。音楽院の中に外国人向けのフランス語の授業がありました。それは音楽の話題に関わらず、フランス語の全般的な能力を付けていくものでした。

―パリ音楽院には、どのような国から学生が来ていますか?

フランス人がもちろん多いですが、スペイン人、イタリア人が多い印象です。ドイツ語圏の学生は少し。アジアでは日本人、韓国人、台湾人の順。中国人は少ないです。日本人は、私の学年のピアノ科に4人いました。パリ音楽院ピアノ科の日本人留学生の場合、大学3〜4年生、あるいは大学院から入学されるパターンが多いです。

―入学後は、どのように勉強を進められましたか?

パリ音楽院では、まず2011年にピアノ科に入った後、2023年に至るまで、第一課程(学部)のピアノ科、室内楽科、伴奏科、それから第二課程(修士)のピアノ科、室内楽科、歌曲伴奏科、ピアノ伴奏科を修了しました。複数の科に在籍して、毎年のように入試があるというような状態ですね。「延命治療」と言っているのですが(笑)。ただ、パリ音楽院では同時でなくても複数の科で学ぶことがある程度普通といった風潮が伝統的にありますし、私にとっても様々な科に入って音楽を深めるのは自然なことでした。

パリ音楽院にはピアノを用いる科がたくさんあって、ピアニストにとってはたくさんのオプションがあります。ピアノを用いた特徴的な科と言えば、伴奏科が挙げられるでしょう。第一課程では伴奏科、第二課程(修士)ではピアノ伴奏科と呼ばれています。伴奏科やピアノ伴奏科は、日本の音大では滅多にないものですが、ここには、ピアノ科出身者と作曲科出身者の両方が来ていて、実際に私は修士のピアノ伴奏科で藝大の同期(作曲科出身)と同時期に在籍していました。授業内容は実践的で、例えば、オーケストラ譜をピアノで弾くとして、どの音を弾き、どの音は省くか、といったこととか、5分から15分ほど準備時間を与えられ、ピアノに置かれた目の前の楽譜を移調して弾くとか、コラールの声楽的な音色をどのようにピアノに落とし込むかとか、そんな訓練をしました。管弦楽曲のピアノ編曲を弾く際に、単にピアニスティックというのではなく、元の楽器の性質を反映させて弾くにはどうするか、といったアプローチもありました。ピアノ科の修士課程修了時には、当時第一課程の伴奏科に在籍していたこともあって、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」(ピアノ独奏曲として作曲された後、管弦楽版が作られた)を取り上げました。

―なるほど、音楽への取り組みがとても豊かになりますね。永井さんは、アンサンブルの活動を盛んになさっていますね。

はい、アンサンブルを中心にしております。ソロも弾きたいと思いますが、室内楽に手応えを覚えています。現在、パリ音楽院ホルン科及びコントラバス科伴奏助手です。ヴァイオリンほどではないですが、ホルンのレパートリーも増えてきています。

―ホルンという楽器の魅力はどのようなところにあるでしょうか。

ホルンといえば、まず「狩」に結びついていますね。豊かで長く温かな響きが魅力です。弦楽器にも金管楽器にもピアノにも大変よく馴染む音であると思います。管楽器で最も好きな楽器の一つです。一方のコントラバスはホルンと比較してよりオーケストラ内の楽器だなと感じます。ちなみに今度7月の東京のルーテル市ヶ谷でのコンサートでは、クーセヴィツキー生誕150周年記念で、都響のコントラバスの本山耀佑さんと共演します。

―7月のコンサートを楽しみにしております。歌曲の伴奏もなさっているのですね。

現在のところ歌曲伴奏をする機会は室内楽のそれに比べて少ないですが、今後もっと取り組んでいきたい分野です。歌曲伴奏は、器楽とのアンサンブルとはまた違ったところがあります。やはり言葉と共にあるものですから、演奏するとなると、歌詞をよく調べ理解するということをします。特にキーとなっている言葉を中心にイメージを膨らませます。舞台の中央に立つ声楽家と戯れたり、時に舞台背景になったり、というのが楽しいです。歌曲伴奏に取り組むようになったきっかけは、話が遡りますが、高校時代に、野平一郎先生が静岡音楽館AOIで指導されていた「ピアノ伴奏法講座」を受講したことです。その講座の受講生募集のチラシが藝高の入り口に置いてあったんですが、行ってみると受講生は大学生や大学院生、プロの演奏家たちで、高校生というのは初めてだったようです。戸原君にヴァイオリンを弾いてもらってデュオをヴァイオリンの漆原啓子先生に指導していただくこともできました。この講座でアンサンブルの奥深さ、楽しさに触れ、歌曲伴奏にも取り組みたいと思いました。たくさんの大作曲家がリートやメロディを残していますし。

―あの講座は、2007年頃から、何年かにわたり折々聴講していましたが、素晴らしい指導でした。まさに野平先生は、フランス音楽のアカデミズムの伝統で言う「完全なる音楽家」ですよね。

野平先生のご指導は私にとって大きな転機になりました。最近も、先生には、パリ、そして、スペインのカナリア諸島でお会いしましたが、お会いするたびに当時の静岡での講座を思い出します。

―先日のリサイタルでは、ドイツで学ばれた戸原さんとフランスで学ばれた永井さんとで、その背景を生かして選曲をなさったとのことでしたね。

そうですね。それ以外にもリサイタルの時期が春であるということや、戸原君と久しぶりに共演するということでフレッシュさがあるといいなという考えもあり、前半にベートーヴェンのスプリングソナタを選びました。プログラムの最後は、フランス物ということでフォーレのヴァイオリンソナタ第1番を取り上げたのですが、この曲はとてもフレーズが長い。下手をすると聴いている人が息苦しく感じてしまいかねません。ですから、音楽の呼吸がわかるように弾こう、と戸原君と話していました。緩徐楽章である2楽章は、人間の声のように、というのを意識していました。具体的なセリフや物語はないけれど、何か訴えかけるものがありますよね。そのセリフを想像したりしていました。戸原君はリューベックに留学されていましたから、スプリング・ソナタの練習の時には、彼に「フランス語訛りのベートーヴェンになっていないか?」と問いかけたりしていましたよ(笑)。

というのも、言葉自体の持っている抑揚のようなものとも関係があるのでしょうけれど、ドイツ語とフランス語では、発音や発声、声の調子、リズム感が違いますよね。音楽にも何かしらそういうことが反映されている。ということで、個人的には無意識で出ているであろう日本語訛りに注意するようにしています。それと同様に、私はフランスに10年以上いますので、ドイツ語圏の音楽を演奏するときには少なからず音楽のフランス語訛りが出ているかもしれないと意識して取り組むようにしています。これは特に、パリ音楽院の歌曲伴奏科でのレッスンや、その頃受けていたドイツ語やフランス語、イタリア語のディクションの授業を受けてから強く意識し始めたことです。フランス語圏の音楽もドイツ語圏の音楽も、虚心に取り組もうと、そう思っています。

(左)パークハウスアワード国際室内楽コンクールのファイナル・コンサート ロンドン・ウィグモアホールにて。(右)パリ音楽院にて。歌曲をCD録音している様子。

(左)パークハウスアワード国際室内楽コンクールのファイナル・コンサート ロンドン・ウィグモアホールにて。(右)パリ音楽院にて。歌曲をCD録音している様子。

ただ、訛り以外にも無意識的に、日本人という部分もあって、例えば、包装紙で包んだりするときの丁寧さというのはフランスと日本では違います。日本での丁寧さというのは、フランスでは過剰な丁寧さ、となったりする。音楽のフレーズの収め方の丁寧さなどにも、そういった部分は出てくるかもしれません。これは余談で大変主観的な話ですが、僕は車のデザインに興味があるんですが、日本車は細部の造りが丁寧だけれど、全体から受ける魅力に乏しい傾向が少なからずあると感じています。一方、一昔前のイタリア車なんかを例にとると、雨漏りしたり、エンジンのトラブルが頻発したりするなど細部の作りなどに多少隙があっても、全体としてのまとまりやパッと惹きつけるものがあって、その細部の隙を許せる魅力があったりする。これにはもちろん好みの問題も絡んでくるのですが。とは言え音楽にもそうした国柄、土地柄が大いに出うるのではないかと思っています。

先日ドイツ語圏に留学していた大学時代の友人とも話したんですけれど、「フランスって、拍を、上に向かうエネルギーで感じているよね」、と。練習しながら音楽からドイツ語が聞こえてくるか、音楽からフランス語が聞こえてくるか、日本語訛りや日本人的趣味になっていないか、という問いかけをよくしています。家族には、「初めて聞く人にとって、それは「ハテナ」じゃない?」なんて言われますけど(笑)。

―いえ、それは感覚としてよくわかります。

言語に関連するお話ですが、実は、僕はスペイン語が好きでほんの少しですが勉強しているんですよ。パリのBook-offでスペイン語の入門書をたまたま見かけて、やってみようと思ってラジオやYouTube等も使って独学で始めました。高3の春にスペインのマスタークラスに参加したことがありました。英語が全く通じなくて、でも滞在最終日に乗ったタクシーで流れていたラジオのスペイン語を聞いてなんと美しい言語だろうと心奪われて。独学で始めたのはそれがきっかけです。ラジオや旅先でスペイン語を聞いたり話したりしているうちに、ファリャやアルベニス、トゥリーナなどの音楽を聴くとスペインのスペイン語に聴こえてくる気がするようになり、スペイン語に限らず言語と音楽はこれほど緊密なのかと再認識しました。まあ、もっともそのような気がしているだけかもしれませんが(笑)。スペイン人のサクソフォン奏者カルロス・サラゴサさんとのアンサンブルのCDをスペインのレーベルから出したのも、スペイン語のつながりです。

―そのCD「五つの韻文」を聴かせていただきました。初めて聴く曲ばかりだったのですが、研ぎ澄まされた現代的かつ叙情性豊かな響きで、表現の大きな可能性を感じました。「20、21世紀における無言歌の探究」がテーマとのことですが、このCDには、スペインの音楽誌の賞が授与されたのですね。

インタビュー時の永井さん

インタビュー時の永井さん

あのCDは実験的な面もあったのですが、ありがたいことでした。収録曲の一つにカプレの歌曲がありましたが、フランス歌曲をサクソフォンとピアノで演奏するためのアプローチに正解はなく、色々と試行錯誤しながら私達なりの正解を見つけるほかありませんでした。
サックスを弾く人たちは、現代の新しい曲を重要レパートリーとしていて、その感覚をある程度ベースに持っていますね。ピアノ奏者の場合は、もっと古典的な音楽がベースにあって、その先に現代曲が広がっているというイメージを持っている方が多いのではないかと感じています。僕はそのように取り組んでいます。

―ところで、永井さんのお好きなピアニストはどなたですか?

どのピアニストを聴くか、というように限定してはいないのですが、割と古い時代の音源を好んで聴いていますね。ギーゼキング、ケンプ、ルプー、カッチェン… その他にはシュナーベル、ルドルフ・ゼルキンなど。クラシック音楽の作曲された時代と現代では、時間の感覚も変わってきていて、現代人は集中できる時間が短いといった傾向もありますが、往年の奏者の方が、作曲された時代の感覚に近いものを持っていたのではないでしょうか。ですから、往年の演奏に学ぶべきことが大きいように思うんです。

―リアルタイムでは聴けないピアニストがお好きなんですね。

現代のピアニストの名前を挙げてと言われても咄嗟には出てこないくらいで(笑)。ルプーやプレスラーの晩年の演奏には触れることができました。それは本当に至福の経験でした。プレスラーはボザール・トリオで活躍したピアニストですが、晩年のソロも素晴らしかったです。存命のピアニストですと、ペライアやバレンボイム、ホアキン・アチュカロのほか、私のパリ音楽院での師匠でもあったジャック・ルヴィエですね。

―永井さんは、31歳とお若いですが、時代の流れを超然と見ていらっしゃるようなところがおありですね。確固とした音楽への志向性が感じられます。パリ音楽院での教育と演奏活動の両輪でのご活躍を楽しみにしております。本日はありがとうございました。

(聞き手・安永愛)