インタビュー「ピアノとわたし」(26)
牧野貴昭さん
プロフィール
ピアノ愛好家。浜松ついぴの会主催者。ヤマハ株式会社勤務。
インタビュー
―「音束」の中山絵理さん(「ピアノとわたし」(16)参照)より、ヤマハで電子ピアノの開発をされるとともに、アマチュア・ピアニストとして精力的に活動なさっている方とのご紹介いただきまして、今日は、お話を伺うのを楽しみにしております。3月には、パトリシア・パニー先生のコンサートにご来場くださいましてありがとうございました。牧野さんは、どちらのご出身ですか?
生まれは東京で、千葉県流山市で育ちました。大学は東京、就職以来、浜松です。
―ピアノとの出会いから教えてください。
ピアノを始めたのは5歳の時です。母が大人になってからピアノを習っていたのですが、ピアノはいくつかのお稽古事の一つとして始めたと思います。ピアノを始めた頃のことは、ぼんやりとしか覚えていないのですが、小学校高学年の頃のピアノの向き合い方はよく覚えています。小学校4年から陸上部に入っていて、これがなかなかハードで、それでもピアノは毎日30分ぐらいは弾いていました。陸上部とピアノは、トレーニングという意味で割と似ているように感じていて、当時は走ることと同じような感覚で指を動かしていました。今考えると「音楽をやる」というのとは、ちょっと違っていたような気がします。
―発表会やコンクールなどは出られていましたか?
コンクールは出たことは無いです。というか当時は、存在すら知らなかったです。町の小さな音楽教室に通っていまして、発表会は2年に1回くらいでした。発表会に出て、自分はピアノは割と得意だなと感じていました。
―ピアノが弾けると学校で合唱の伴奏をさせられたりしませんでしたか?
そういう機会はありましたね。「気球に乗ってどこまでも」という合唱曲を伴奏した記憶があります。
―NHKの合唱コンクールの課題曲ですね。
そうだったのですね。それは知らなかったです。
中学校に上がると、通っていた教室が閉室になってしまいました。それで半年くらいブランクがあったのですが、母の所属していたママさんコーラスの指導をされていた声楽家の先生にピアノのレッスンをしていただくようになりました。今思うと、これは転機の一つになったと思うんです。先生は、例えばショパンのノクターンのレッスンで、実際、メロディーを歌ってくださったりしたんです。オペラを歌うように。それで、フレーズを歌うというのはどういうことなのか、というのを感じ取り、考えるようになりました。それから、バッハのインヴェンションとシンフォニアをしっかりと教えてくださいました。これが後々に向けての基盤になったかもしれません。今バッハを弾くのが大好きなのもこの頃の練習によるところも大きいかなと思っています。
―ピアノはずっと続けてこられたのでしょうか?
いいえ。大学に入学すると、クラシックギターのアンサンブル・サークルに入り、ピアノから離れていました。プロ級に上手な先輩がいて、目の前で鳴るクラシックギターの音を聴いて、ピアノの音には無い魅力を感じ、クラシックギターにはまりました。
このサークルでは、指揮や編曲もしていたので、音楽を聴きまくっていました。ギターアンサンブルに相応しい曲を求めて、よく東京文化会館の資料室にCDを聴きに行っていました。当時は、YouTubeなんてものはありませんから、それが貴重な情報源でした。ギターアンサンブルの選曲がメインの目的ではあったはずなのに、いい曲をたくさん見つけてしまい、アンサンブルには使えないような音楽をずっと聴いていたなんてこともよくありましたね。ベートーヴェンの弦楽カルテットやヒンデミットなどもこの頃出会った音楽です。
ギターアンサンブルでは、最大規模だと40~50人ぐらいの8パートで合奏しました。チャイコフスキーの「スラブ行進曲」を編曲・指揮したのはよい思い出です。虎ノ門ホールなど大きなホールで演奏する機会もありました。仲間と音楽を作る素晴らしさを体験し、これは私の音楽観の原点になっています。サークルは3年生の12月で引退となり、正味3年間の経験でしたが、大学時代は本当にこの活動に夢中になりました。おかげで、留年スレスレという感じでした。4年生になっても、まだそんなに単位が残っているのか、と驚かれたりして(笑)。当時は将来のことなどは全く考えていなかったです。少しでも音楽に関係している仕事がいいなという気持ちから、ヤマハにエンジニアとして入社しました。
1992年ギター・アンサンブルの定期演奏会。指揮をする牧野さん。
―では、大学時代はピアノは弾いていらっしゃらなかったのですか。
全くでは無いですが、ほとんど弾いていなかったです。サークルの練習室にアップライトピアノがあったので、遊びでギターの上手な部員の「アランフェス協奏曲」の伴奏(オーケストラのピアノ譜)を弾くようなことはしていましたが。あと、編曲の際はピアノで音を確かめるということはしていましたね。就職してからも、ピアノはほとんど弾いてなかったです。音楽は何となく続けていて、キーボードやエレキベースを弾くこともありました。
―現在、これだけピアノにハマっていらっしゃるということは、ピアノを再開されるきっかけがあったわけですね?
はい。ピアノは娘のバイオリンの伴奏で再開しました。これが本当に楽しくて、ピアノをまたやってみようと思うようになりました。娘のバイオリンの発表会の伴奏もよくやりました。本当は娘のコンクールの伴奏もやりたかったのですが、私が足をひっぱるからと、妻と娘に却下されました(笑)。
娘さんのバイオリン発表会。ピアノは牧野さん。
娘はピアノも習っていたのですが、年中の頃だったか、ピアノの先生から、ピティナ(一般社団法人全日本ピアノ指導者協会)のコンクールに出てみませんか、とお声がかかったんです。娘はまだ小さかったのでお断りしたのですが、ホームページを調べて、ピティナに大人の愛好家のための部門(グランミューズ部門B1/B2カテゴリ)があることを知りました。娘の代わりにという訳ではないですが(笑)、興味本位で私が参加してみました。それ以降、コロナ禍での開催休止と参加自粛を挟み、今年に至るまで毎回参加しています。
ピティナのコンクールに毎年参加するようになったのは、アマチュアピアニストの濱川礼さんとの出会いも大きかったです。濱川さんと出会ったのは、2007年に初参加したピティナのコンクールの浜松予選でした。濱川さんは日本で初めてカプースチンと直接コンタクトを取ったりとカプースチン・ブームのさきがけとなった方です。人並み外れた探究心を持ってピアノに取り組まれていました。濱川さんが声をかけてくださって、コンクール終了後、数人で飲みに行きました。色々音楽やピアノの話ができて楽しかったですね。濱川さんからピアノのイベントなどのお誘いもあり、そのおかげでこの頃からピアノ仲間が急速に増えていきました。
―そうですか。濱川さんは、私の大学のピアノサークルの大先輩でもあります。牧野さんとそのようなご縁があったとは驚きました。2007年のコンクールでは何を弾かれたのですか?
モーツァルトのピアノ・ソナタKV. 333の3楽章です。軽く予選落ちしました(笑)。その後も、しばらくモーツアルトのピアノ・ソナタを弾いていました。あと、バッハですね。トッカータBWV.914とか、パルティータ第2番のシンフォニアなど。コンクールに出場するということは、ホールで弾くことになります。この頃からホールでピアノを弾くことの心地よさに目覚めました。
―社会人として、ピアノのコンクールに毎年出場し続けるというのは、なかなか大変なことと思いますが、練習はどうしていらっしゃるのですか?
毎年出場していますが、大変だとは思わなかったです。グランミューズのB1/B2カテゴリ(B1は音大卒を除く23歳以上、B2は音大卒を除く40歳以上)は6分前後の審査になります。どんなに忙しくても、1年練習すれば、最低限6分の曲を1曲は仕上げられるはずと考えていました。弾きたい曲があってもすぐに弾けるようにはならないので、弾きたい曲のリストがあって、何年も前に弾く曲を決めています。こうすると弾く曲を本格的に取り組む前に通勤の車の中などでたくさんの音源を聴いている状態になり、自分なりの表現をイメージしやすいと感じています。もっとも弾きたい曲リストには突然割り込んでくる曲があってしょっちゅう見直しているのですが(笑)。
あとはマスタークラスのようなレッスンを受講したり、ホールで練習したりと、自分なりに効率よく上達する方法を探っています。浜松国際ピアノアカデミーの大人のためのワンポイントレッスンも何度か受講しています。
―国内外の一流の講師の方が複数指導くださる、とても贅沢なプログラムですよね。最後に受講生の成果発表会というのもあるのですよね。その発表会で牧野さんはラモーのクラヴサン曲を演奏されたこともありますね。
はい。この頃は、この曲とドビュッシーの「ラモーを讃えて」をカップリングしてよく弾いていました。
―それは素敵な選曲ですね。
―浜松ついぴの会を主催されているということですが、どのような会なのでしょうか?
ついぴの会は、全国津々浦々で開催されているピアノの弾き合い会です。弾き合い会というのは、発表会よりもカジュアルな感じになります。演奏だけでなく、演奏前のちょっとしたトークや懇親会も含め、その時その時のピアノの取り組みなどを共有するような感じです。浜松では、私自身が主催者として負担に感じない程度に、年2回というペースで緩くやっています。サークル活動や習い事よりも緩く、縛りが無い感じかもしれません。参加者は30代から60代まで幅広く、いろんな方がいらっしゃいます。会則があるわけではないですが、「求められていないのに他人の演奏の批評はしないこと」は参加者の方にお願いしています。ピアノの巧拙に関わらずフラットな関係というのを大切にしたいからです。常連の方、初めて参加される方、お久しぶりの方などさまざまで、参加を強要することもありません。参加する方がいなくなったら会はやめようと思っていましたが、気が付けば、来年の1月で20回目の開催になります。
―なるほど。2007年から本格的にピアノを再開されて、ご自身の演奏も進化されてきたのではないでしょうか。
先日、ある親しいピアノの先生に大人でも上達するんだね、と言われました(笑)。音楽の感じ方が深まったり、経験値が上がったりということはあると思いますね。あと演奏の進化は人との出会いによるところも大きいと感じています。濱川さんは、昨年、急逝されたんです。まだお若かったのに、本当に残念で。
―それは存じませんでした。濱川さんは、牧野さんの10歳上くらいですよね。そんなことが・・・20年近く前でしょうか、サークルの30周年記念パーティーでお目にかかりました。YouTubeに濱川さんの演奏が残っていますね。
はい。近年、コンクールに毎年参加している仲間たちと2年に1回名古屋でジョイントリサイタルを開催しています。今まで濱川さんと一緒にしていたのですが、今年の3月は、追悼のコンサートになってしまいました。このコンサートではピアノを通じた人とのつながりを強く感じています。例えば、メンバーの大学時代の合唱団が駆けつけてくれてアンコールのピアノ連弾に合わせてサプライズで歌ってくれました。嬉しかったですね。ピアノを弾いていて泣きそうでした。
2019年名古屋でのジョイントリサタル。左から林洋介さん、牧野さん、田中詠子さん、濱川礼さん
―普段、どのくらい練習されているのですか?
10年前は、土日しか弾いていませんでしたが、今はもう少し弾いています。できるだけ1日1時間ぐらい弾けるようにと思っています。ソロもいいですが、室内楽もやっていきたいです。ピアノをもっと本気でやってみたいと思うこともあります。
―定年退職されたら、ピアノに没頭することも可能になるでしょうね。
そうですね。老化との闘いになりそうですが(笑)。
―私は、新しい曲を攫うのに、学生時代より時間というか期間がかかるようになっている気がします。そして、長期的記憶の方は残るんだけれど、短期的記憶が残りにくいというか(笑)。昔から弾いている曲は割と抜けない。
確かに、そういう傾向はありますね。直近10年と限定してもそんな感覚はあります。子供の頃に弾いていた曲というのは、今でも結構手に残っていたりもしますし。
―お嬢さんは、今、音楽大学でバイオリンを専攻されているとのことですね。色々な曲のアンサンブルができそうですね。
そうですね。娘が里帰りする際には、この曲弾いてみて!とお願いしています。私が弾ける曲に娘がちょっと付き合ってくれる感じです。
―それでは、最後ですが、好きな作曲家や演奏家を教えていただけますか?
好きな作曲家はバッハとモーツァルトですね。モーツァルトは弦楽が入っている曲が好きです。ロマン派は聴き専であまり弾いてこなかったんです。でもラフマニノフやフォーレ、ブラームスあたりは弾いていきたいと思っています。演奏家については、そうですね。なかなか難しいですね。あまりにも多くの素晴らしい演奏家がいますから。バッハに限って言うとダビット・フレイが好きです。あまり来日してくれないのですが。
―牧野さんは、ヤマハ社員として、音楽のウェルビーイングにつながるお仕事をされ、ピアノのアマチュアとして、ご自身楽しまれるだけでなく、ピアノ好きの方々の楽しむ場を作り出していらっしゃって、まさにピアノのウェルビーイングを存分に作り出し、それに培われている方とお見受けいたします。夏季休業の貴重なお時間をいただきまして、楽しいお話を聞かせてくださいまして、誠にありがとうございました。
(聞き手・安永愛)