インタビュー「ピアノとわたし」(25)
窪田由佳子先生
プロフィール
OZAWA MUSIC ピアノ指導者。静岡県文学連盟所属。
インタビュー
―この度は、インタビューをお受けいただきありがとうございます。窪田先生はインタビューシリーズ「ピアノとわたし」(21)に登場された小澤実々子さんのお母様でもあり、窪田先生の『シベリアのバイオリンーコムソモリスク第ニ収容所の奇跡』を拝読させていただいて以来、ずっとお話を伺いたいと思っておりました。よろしくお願い致します。人生の流れに沿ってお話をお聞かせいただけますか?
最初に接したのは、足踏みオルガンでした。家にあったんですね。小学校に上がる前には探り弾きをして遊んでいました。小学校は静岡サレジオ小学校の前身である星美小学校に通いまして、放課後にシスターのピアノ・レッスンがあったんです。ところが、学校の夏休みや冬休みはピアノレッスンもお休みになってしまいます。それで、近所のお姉さんに習いに行くようになりました。子供心にも、うちは切り詰めてるなあ、というのは感じていたのですが、父がピアノを買ってくれて家でも練習できるようになりました。
(左)七五三のお祝い(右)自宅でピアノを弾く窪田先生
―お父様は、バイオリンがお好きでいらっしゃったから、バイオリンを勧めたりはなさいませんでしたか?
父は、アンサンブルできることを楽しみにしていて、私にピアノを習わせようと思ったようなんです。家では、お客さんがいらっしゃると、必ずバイオリンとピアノのデュオを披露していましたね。
―お父様とどんな曲を弾かれていらっしゃいましたか?
よく覚えているのはベートーヴェンの「ロマンス」です。それから、母やピアノは習ったことはないのですが、シューベルトの「セレナード」だけはバイオリンの伴奏ができたんです。
―それは素敵ですね。窪田先生は、いつ頃からピアノの道に行こうと思われるようになったのですか?
小学校1年生の頃には、「将来はピアノの先生になりたい」と書いていました。ピアノのレッスン通いを続けるうち、先生が結婚されることになり別の先生に変わる、というパターンが3回続き(笑)、4人目で初めて男の先生に習うことになりました。新村裕先生です。話題に事欠かない、個性的な先生でした。実は、後々、新村先生を介して、夫(小澤保雄先生)とも知り合うことになるのですけれど。門下生の名簿作りをするから手伝って、ということで、手伝いに行った先に、夫が来ていたんです。それはともかく(笑)、新村先生に教えていただいたことはとても大きかったと思います。小学校の頃は、周りにピアノの上手い人もあまりいなかったのですが、公立の中学校に進んでみると、ピアノに熱心に取り組んでいる人がちらほらいたんですね。東京にレッスン通いされている方もいて、レベルが高いなあと感じました。高校は、城北高校に進んだのですが、私の学年は少し特殊で、学年7クラスで、そのうち13人が音楽の進路でした。楽器のできる人が多いので、文化祭などでも演奏会を企画したりしていました。
―武蔵野音楽大学に進学なさるのですね。
武蔵野音大は、音大に一部と二部、それから短大にも一部と二部とあったんですが、私は、最初短大の一部に入学しまして、翌々年、3年生から音大の一部に編入しました。音大の受験にあたっては、楽典やソルフェージュなどの勉強に力を入れました。実家にあったグランドピアノをどうしても東京の下宿に入れたかったので、3畳間を2つ借りていました。お台所などは共同という形式でしたね。ピアノの実技そのものは、上手い人も多くいますから、コンプレックスもあったんですが、それ以外の音楽全般に関わる学びに特に力を入れようと考えていました。当時、武蔵野音大には、大学院、短大も合わせるとピアノ科だけで2000人くらい在籍していたんですよ。1学年だけでも500人近く。
―そんな時代があったのですね。驚きました。卒業演奏会では何を弾かれたのですか?
シューマンの「クライスレリアーナ」の抜粋10分ほどでした。指導の先生が曲を選択してくださるんです。
―それぞれの生徒さんに合った曲を選択なさったのでしょうね。ドイツ系の音楽が似合っていると思われていたのでしょうね。窪田先生は、1981年から1982年にかけてケルンに留学なさっていますね。
これは、音楽大学への留学というのではなく、個人留学の形です。音大受験の勉強で出会った先生に作曲家の志田笙子先生がいらっしゃって、志田先生のもとでソルフェージュを学び、卒業後もアナリーゼの勉強に通っていたんです。志田先生が、夫のマイケル・ランタ(1970年の大阪万博の西ドイツ館でシュトックハウゼンの曲を演奏していた打楽器奏者です)と共にケルンに行かれることになりました。ケルンで打楽器販売のお店も経営されていたので、家事手伝いをする代わりに事務所に寝泊まり家賃はタダということで「ケルンに来ない?」という話になったんです。それで1981年春にケルンに渡りました。そこで私は、アンサンブルの勉強ができると良いと考えていたのですが、志田先生が、バレエの伴奏法をタダで教えてくれる方としてインドネシア出身でパリで学ばれたサミュエリーナ・タヒハを紹介してくださったのです。それまで、私はバレエとは縁がなかったですが、バレエのコレペティとして必要なことを熱心に教えてくれました。バレエのレッスンの流れやそれぞれの動きに沿った音楽、バレエ教師が指示する音楽を咄嗟にピアノで奏でられるようにする訓練ですね。バレエの伴奏の際には、8小節が1単位になります。バレエのレッスンは1時間30分くらいあり、その間、ほとんど絶え間なく弾いていますからなかなか大変です。既存の曲を弾く場合もありますし、自分で作曲したレーズを弾くこともあります。作曲したフレーズは5線紙に書き溜めて行きました。そうしたストックができるまではとても大変でした。ケルンでの生活は1年と少しでしたが、前半でコレペティの技術を学び、後半は、バレエのコレペティとしての実践を積んでいました。
―ケルンで活動を続けたいというお気持ちもあったのではないでしょうか。
ケルンに渡ったのは4月のことだったのですが、5月半ばに父が倒れまして、7月に手術して復帰しようとしたところが、手術は失敗し、父は亡くなってしまいました。9月半ば頃に帰国して、母と共に死後の様々な手続きを行いました。母は一人になるのが辛く、1年経ったらケルンから絶対帰ってきてほしい、と望んでいました。母の思いに応えなければと思い、ケルンでの生活は1年少しで帰国することにしたんです。
帰国し、静岡の実家に戻ると、ピアノ教師の仕事の依頼は、広告しなくてもありましたが、その仕事と並行して、バレエのコレペティとしての仕事を探し、六本木スタジオ一番街で働くことになりました。東京にもアパートを借り、毎週、静岡と東京を行ったりきたりしていました。六本木スタジオ一番街というのは、団員を抱えているバレエ団というのではなく、様々な人がレッスンに通うことのできる場でした。小川亜矢子先生が主宰されていて、スタジオに通ってくる人の中には、前田美波里さん、桃井かおりさん、床嶋佳子さんなどがいました。そういう方々と接するのはワクワクしましたね。他にバレエのコレペティを若き日の宮川彬良さんが務めていて、小川先生は「とても才能のある人だから」と、とても大切にされていました。
バレエの伴奏を務める中で、多くのことを学びました。そもそも音楽は、踊りと結びついたものが多いですよね。体の動きと音楽がマッチするということ、それは演奏にとって、とても大切なことです。
六本木スタジオ一番街では隔月で新しい振り付けによる演目を披露していました。「奇妙な人々」と題した演目では、音楽を作曲しました。「奇妙な人々」というのは、「将来どうなるかもわからない、バレエで食えるかどうかもわからないのに、バレエが好きで好きで集まってくる人たち」とそんな意味ですね。それから、フォーレの「主題と変奏」(嬰ハ短調 Op.73 )に合わせて踊るという演目もありました。その演目のピアノも担当しました。
―バレエのコレペティというのは、作曲家、即興家の要素もあるし、本格的なピアノ曲を弾くこともある、実に幅広い能力が求められるお仕事ですね。
踊っている方に、演奏の反応をいただけることもあって、それは嬉しいですね。ピアノのおかげでとても踊りやすかった、とか、思い出の曲で、ジーンときた、とか。バレエのコレペティにはある程度、パターンが決まっている部分もあるのですけれど、臨機応変の部分も大きく、ずっと気が抜けませんから、それは大変です。バレエのレッスンの最後の方ではジャンプの練習の時間があるのですが、その時、「そんな音楽じゃ飛べないよ」とバレエ教師に厳しく言われたことがありました。それで、ジャンプできるような音楽を、と思って色々頑張っているうち、腱鞘炎のようになってしまったんですね。特に右手です。それには参りました。病院も10軒くらい回ったのではないでしょうか。手を痛めてしまったこと、それから結婚することになり、東京・静岡往復の日々は終え、静岡に居を据えた生活になりました。
―新村先生門下生の名簿作成で出逢われたのでしたね?
夫に最初に出会ったのはその時ですけれど、結婚することになったのは、それからずっと経ってからのことです。10年くらいですかね。夫は、トランペット奏者なのですが、私の友人のピアニストとアンサンブルをするというので、譜めくりを頼まれまして、そこで再会したという次第です(笑)。
静岡に居を据えてからも、コンサートの企画が色々と舞い込みました。バイオリニスト、チェリストと共にトリオを組みました。コンサートの企画が好きな方がいらっしゃって色々なところで演奏させていただきました。静岡市の旧マッケンジー邸や、南アルプスの二軒小屋など。レストランでのミニ・コンサートでもよく演奏しました。レストランのオーナーがバッハがお好きでしたので、コンサートの冒頭は必ずマイラ・ヘス編曲のバッハ「主よ、人の望みの喜びよ」を私がソロで弾きました。そのあとは、ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、ブラームスなど。名曲集から色々弾きました。母についてきてもらって娘の実々子の面倒を見てもらって、休憩時間に授乳したりもしていました。
―演奏家、教師として活躍されながら、静岡県文学連盟の会員でもいらっしゃいますね。
はい、十数年前から会員です。私の周りには、音楽家でありながら文筆もなさるという女性がいて、憧れを持っていました。スペイン歌曲の名手として知られる柳貞子さんとか、サティの演奏や研究で知られる島田璃里さんとか。音楽のことも書かれるけれど、東京大空襲のことなど、社会的なことも書いておられる。そういうのがいいなと思ったんです。それで、文章教室の通信教育を受けてみたら、それがとても楽しくて。エッセイを書いては送ると、添削されて返ってくるのですが、書くことに意欲を持たせようとしてなのでしょう、そのコメントがとても面白いのです。イラストも一緒に描き込まれていることもありました。文学賞に応募しているうち、入賞するようになりました。それで、文学連盟の方から、「窪田さんも静岡県文学連盟に入らない?」とお誘いを受けまして、入ったという次第です。
最初は短いエッセイを書くということしか考えていなかったのですが、長いものも書いてみたら、と言ってくださる方がいらっしゃいました。父がシベリア抑留の経験者ですので、そのことは書いてみようと思いました。それで、シベリア抑留関係の本も手に取るようになったのですが、その中で、高杉一郎さんの『極光のかげに』はユニークでした。まず、この作品は事務所でのロシア人とのやり取りから始まるんです。強制労働だの、飢えだのといった話からではないのです。高杉一郎さんの著作を読み込むうちに、その視野の広さや歴史を見据える視線に敬意を覚えるようになりました。実は、高杉一郎さんは静岡県出身の方でもあって、奥様も私の母校である静岡城北高校の英語教師をなさっていたし、周りにも繋がりのある方がたくさんいらっしゃったんです。
父のことを書こうとして、私はあまりに知らなかったことが多いのに愕然としました。今、父が生きていれば99歳ですが、シベリア抑留経験者では最も若い部類です。シベリア抑留について証言できる人は、まもなくいなくなってしまいます。何があったのか、体験を書き残していく使命を感じています。シベリア抑留については、語る方が少ないです。戦後、アメリカが共産主義を警戒していましたので、シベリア抑留の過去に触れると共産主義者としてレッテルを貼られ、社会的に排除されるという恐れもあったためだと思われます。シベリアの捕虜収容所は2000箇所あり、収容所内の楽団は90を数えました。それは捕虜の不満解消の意味合いもあったかも知れません。共産主義を肯定的に捉えてもらいたいというソ連の思惑もあったことでしょう。
私は2017年に、父のシベリア体験を綴った『シベリア幻想曲』の小冊子を2017年に自費出版しました。多くの方にお送りして、読んでいただきました。そうしましたら、環境問題についての講演などで活躍していらした馬場利子さんが、お父様のテーマで本を出版してはどうか、と提案してくださったんです。『シベリア幻想曲』の中には、戦争のテーマ、音楽のテーマがあって、それが絡み合って平和への祈念につながっている。是非本にして欲しいと。馬場さんは環境カウンセラーでもあり、大変な行動力を持った方。『シベリアのバイオリン』の版元である出版社「地湧社」の副社長を務められたこともあります。
―ピアノとはまた違った分野でのご縁があったのですね。
ピアノはもちろん、私の中心にありますけれど、生きていく以上、社会と関わりを持っているわけですから、学びたいこと、知りたいことがあります。環境問題は切実です。それで、勉強会や講演会に足を運んでいます。学生だった頃も音楽史や楽理の勉強に力を注いでいましたが、ピアノの演奏だけ、というふうにはならないのですね。バレエの仕事をやってみたのもそのためかもしれません。
―窪田先生が、ピアノだけに閉じこもらずに社会に広く興味を開いていらっしゃったことが『シベリアのバイオリン』のご著書にも繋がっていたのではないでしょうか。
この本を書いたことで、本にまつわる講演や演奏を行う機会も増えてきました。望月たけ美さんに依頼して、父が好きだったロシア民謡「赤いサラファン」をモチーフに『シベリア幻想曲』というピアノ曲も作っていただきました。『シベリアのバイオリン』にまつわるコンサートで、私はショパンの「革命」や、遺作のノクターン 嬰ハ短調を弾きます。「革命」には、ロシア軍によるワルシャワ制圧の報にシュトゥットゥガルトで接したショパンの苦悩の思い、故郷の友人知人たちは大丈夫だろうか、というどうにもならない苛立ちの思いが込められていると思います。遺作のノクターンは作品番号がないので誤解されがちですが、晩年に書かれた曲ではなく、若い頃の曲です。ショパンのお姉さんに献呈されています。ポーランドを後にすることになった若き日のショパンが、もう家族や友人には会えなくなるかも知れない、そんな悲痛な思いで書いた曲なのだと思います。そうした作曲家の思いも聴衆の皆さんと分かち合いたいと思っています。
(左) 窪田先生のご著書『シベリアのバイオリン コムソモリスク第二収容所の奇跡』(右)『シベリア幻想曲』の楽譜とともに
―窪田さんがお好きな音楽家やどなたですか?
バッハとベートヴェンです。一番尊敬しています。
―先日は、静岡音楽館AOIで実々子さんのバイオリンとのデュオコンサート(池村理果バイオリンリサイタル)を拝聴し堪能いたしました。立派にお子さんを演奏家として育てられましたね。
いえ、私は手をかけてこなかったんです。発表会だからと言っても、実々子の髪を梳かした覚えも結んだ覚えもないです。忙しくしていまして背中を見せていた感じですね。背中を見て育ってくれました。
―お父様の一郎様、由佳子先生、実々子さんと3代にわたって音楽への愛がしっかりと引き継がれているのが素晴らしいと思います。2022年には、トランペット奏者の小澤保雄先生、実々子さんとご家族3人で、ウクライナ支援のチャリティーコンサート「ウクライナ希望のつばさSHIZUOKA」を開催されたのですね。
はい、これも馬場利子さんはじめ、お仲間からの後押しあってのことです。
「ウクライナ希望の翼 SHIZUOKA」のチラシ表裏
―実行力に目を瞠ります。つながる縁の力、それを引き寄せられる力にも。8月12日にはサウンドボックス特別企画「世界平和のために」で、『シベリアのバイオリン』の朗読とピアノ・トランペットの演奏の会に保雄様と出演なさるとのことですね。本日は、演奏会も近い中、お時間をいただきまして、誠にありがとうございました。
(聞き手・安永愛)