インタビュー「ピアノとわたし」(29)
木下淳さん
プロフィール

JK arts代表。1964年生まれ。東大ピアノの会元会長。東京大学農学部農業経済学科卒業後、ソニーに勤務。2013年より現職。
インタビュー
―今日は、東大ピアノの会創立50周年記念演奏会を前にお忙しいところ、ありがとうございます。演奏されるのは何人ですか?
33組です。会場を12時から19時まで7時間使用するとして、一人10分弾くとするとこの人数になるんです。懇親会は80名です。
―各世代が集まって壮観でしょうね。木下さんのJK artsのホームページでプロフィールは拝見したのですが、まずは、ピアノとの出会いからお話いただけますか?
生まれは京都です。しばらくして福岡に移りました。4歳半と6歳上と姉が二人いまして、二人がピアノを習っていましたので、自分は習い始める前に、ピアノで遊び弾きをしていました。年中の時に熊本に引越し、そこでヤマハの音楽教室に入り、それから小1の終わり頃から若い先生の個人レッスンにつきましたが、厳しくて、レッスンは好きではありませんでした。熊本日々新聞社のピアノコンクールがあって、小3の時は本選に進みましたが、なんだか、どんよりしていたんですよ。それから福岡に移って、いとこの紹介で若い先生につくようになりましたが、多分子供を教えるのは初めてだったのではないかと思います。小5の後半でその先生がお休みを取られた4〜5ヶ月間に別の先生に教わったのですが、その時、脱力とか重力奏法のようなことを教えてもらいました。これが自分にとっては大きかったです。

子供の頃(左から 1970年春、 1971年春 、1975年夏)
父も母も音楽は好きで、クラシックのLPを持っていまして、うちにあるLPでチャイコフスキーやラフマニノフのコンチェルト(ピアノはクライバーン)、ベートーヴェンのピアノソナタ、ピアノ名曲集などを聴くようになりました。とは言ってもレコードはまだ高くて、そう買えるものではありません。11歳の誕生日のプレゼントにグリーグのピアノ協奏曲のレコードをもらったのですが、グリーグの協奏曲よりB面のシューマンの協奏曲に惹き込まれました。姉が『Music Echo』という学研の中高生向けの音楽雑誌を購読していて、母が「こういう雑誌があるよ」と教えてくれました。雑誌にはレコードの付録もついていました。そうした雑誌を通して「こんなピアニストがいる、こんなレコードがある」と知って、ピアノの先生には、興味を持ったピアニストについては「持ってませんか?」と訊いて、貸していただける時もありました。そのうちの一枚「ホロヴィッツ on TV」は特に衝撃的で、以降ホロヴィッツは私にとって「神」となりました。それで夢中になっていろいろな曲をラジオでエアチェックをしたり、ピアノのレッスンで習う曲とは別に、聴き齧った曲を色々と遊び弾きをするようになりました。珍しい曲がいつラジオで流れるのか、常にチェックしながら過ごしていました。
中学2年のときに宮崎に引っ越し、宮崎西高校に進みましたが、地方の進学校というのは毎日授業が7時限まであったりして、体育祭も文化祭も一度にやって授業時間を確保するなど、まあ、いかに勉強しない時間を作らないか、という感じでしたから、県の教育委員会が主催するコンクールに出させてもらうなどして、自分で自分を刺激するように努めました。しかし高3になったらピアノのレッスンに行く時間もなくなり、とそんな雰囲気でした。
高1の時でしたが、「オーケストラがやってきた」というテレビ番組に東大ピアノの会の学生が登場しました。ショパンのコンチェルトの「北の宿から」みたいなメロディーの部分を聴き比べさせて、司会の山本直純氏に誰の演奏かを訊かれてちゃんと当てたりするオタッキーな人たちが画面に出ていたんです。その番組には中村紘子も出演していて、東大ピアノの会の会員の何人かが中村紘子の自宅に招かれたなどということは、後々知ることになるわけですが。当時はピアノのない生活は考えられませんでしたので、その番組を見て、専門家を目指さなくても、一般大学に行ってピアノを弾くという道があるんだと目が開かれる思いでした。また、その頃、たまたま読んだある微生物学者の本で微生物食に興味を持ち、東大ピアノの会に入るべく、東大理科2類を目指しました。
入学すると、最初の1年は宮崎県人の寮に住み、翌年駒場寮に入りました。当然ピアノの会には入学早々入会し、そこでピアノ好きの人たちに出会って、どんどん世界が広がっていきました。今考えると、五月祭、7月演奏会、駒場祭(11月)、1月演奏会、と年に4回くらいはサークルの演奏会があるわけですが、もっと計画的に取り組めば良かったと思いますが、当時はとにかく次の演奏会では何を弾こうか、という感じでやっていました。
―木下さんの学生時代の演奏ではバッハ作曲・ブゾーニ編曲の「シャコンヌ」やシューマンの「幻想曲」、ショパンのノクターンの16番などをよく覚えています。
1年生の時からいろいろな編曲作品を知り、学生時代はかなりの時間そうしたレパートリーを弾いていました。「シャコンヌ」もそうですが、ゴドフスキー編曲のJ.シュトラウス「こうもり」、リスト編曲のマイヤベーア「悪魔のロベール」、ワイルド編のラフマニノフ「ヴォカリーズ」などです。今はこうした作品は聴くだけになっちゃいましたが。シューマンやショパンに回帰したのは卒業前あたりからでしたね。
―1987年の暮れ、木下さんがピアノの会の会員に声をかけてくれて、何人かでミエチスワフ・ホルショフスキの演奏会をカザルスホールに聴きに行きましたが、私の人生の中でも屈指の素晴らしい演奏会でした。ホルショフスキは95歳でしたね。
彼は当時、19世紀生まれの現役ピアニストとしては最後の存在でした。来日が発表される数ヶ月前にCDで聴いて「これは!」と思い、リサイタルのチケットを買ったあとに、ずっと安価な追加公演がアナウンスされたので、チケットを10枚買って、ピアノの会の仲間に、半ば押し付けるように売りました。絶対後悔しないから、と言って。彼の来日前にはリヒテルやホロヴィッツ、アラウも聴けました。ゼルキンは残念ながら来日中止。それでもホルショフスキや20世紀前半生まれの大ピアニストの生演奏を聴けたことは私にとって大きな財産です。
―卒業後は、ソニーに就職されて、ソニーピアノの会にも入られましたね。
1988年に入社して東大ピアノの会の先輩でありソニー社員である松本淳さんや小野順二さんとジョイントコンサートを開いたりしていました。

1990年春 左から木下さん、松本淳さん、小野順二さん
小野さんに誘われて、雁部一浩という作曲家・ピアニストの方のお話を聴きに行くようになったのですが、雁部さんは東京理科大学の物理学科卒業ということもあって、ピアノのメカニズムを知悉した上でどう身体を使うか、ということについて独特な考察をなさっていました。ピアノ奏法の本(『ピアノの知識と演奏』音楽之友社 1991年)も出されていますが、彼からは多くを教えられました。「ピアノの汚い音」は本来のピアノの音に対して雑音が混じっているわけで、物理的に鍵盤に触れる音、鍵盤が底を打つ音、それらはできるだけない方がいい。となると、できるだけ指の腹の部分で弾くのが良いという説明には説得力ありました。
それから、上昇音階を弾く時に、親指を潜らせる、ということに意識が向かいがちだけれども、実際には手のポジション移動が大切だとか、跳躍についても、離れた鍵盤に当たる、当たらないという話ではなくて、その離れた鍵盤に瞬時に手を移動させることを意識しなければダメだとか。そうした意識の持ち方、弾き方ということについて多くを学びました。こういったことを意識しているうちに、学生時代とは弾き方がかなり変わりました。椅子の高さも随分低くなっています。
そして1993年にソニーピアノの会が設立されたのですが、そのことを知ったのはパリ赴任から帰国した94年のことでした。もちろんすぐ入会して、年に一度の定期演奏会などの出演させてもらっていました。数年後には代表も務めました。
―社会人になられてから、さらにピアノ演奏を深めて行かれたのですね。
例えば先生から「そこは優しく弾くように」といった指示があったとして、ピアノという楽器の構造や、音が鳴る原理、ペダルの役割等々を知ったうえで、優しい音・表現はどのようにすれば得られるのか、を理論的に考えて実践することが大事だと思っています。結果としては「直感的に」優しく弾く、たとえば手首を柔らかくして弾くとか、少しペダルを踏むとかいうことと似ていても、その前に一つプロセスを増やしていろいろ考えることで、ピアノから引き出せる音が多彩になっていくように感じます。
―92年から94年にはパリ勤務なさっているのですね。
パリ勤務の最初の頃はアップライトのレンタルを弾いていたのですが、住んでいる間にフランスのエラールやプレイエルといったブランドの、第二次大戦前に作られたグランドピアノを買いたいと思いました。色々探すうち、雑誌に掲載されている「売ります、買います」欄で買って修復を頼むというのが一番リーズナブルだとわかりました。そして1927年製のプレイエルのモデルFという170センチくらいの、当時、割と多く作られていたモデルのものを購入しました。象牙の鍵盤ですから、弾き心地も少し違います。調律師の腕にもよるでしょうが、音ののびやかさが特徴です。演奏においても歌が大切ということを教えてくれる楽器です。
―普段聴かれるのはやはりピアノ曲が中心ですか?
そうですね。その他、ヴァイオリン、チェロのソロ曲ですね。弦楽四重奏などより、独奏系が好きです。昔はオペラもかなり熱心に聴いていましたし、多くの歌手が楽譜に対してかなり自由に歌うことには影響を受けたように思いますが、最近は特に理由はないものの、あまり聴かなくなりました。
―サラリーマン時代には海外からピアニストを招聘したこともあるとか?
CDでカナダのピアニスト マルク=アンドレ・アムランの演奏を聴いて惚れ込みまして、是非来日公演をしてほしいと思い、1997年に有志メンバーでアムランを招聘しました。音楽事務所ではなく、愛好家グループによる招聘というのは珍しいと思うのですが、そんなことをやろうとしたのは、1980年代はじめにローラ・ボベスコというヴァイオリニストを愛好家グループが日本に招聘した、という話を雑誌で読んでいたからで、我々でもなんとかなるかも、と思ったのは確かです。2回のリサイタルは満席になっただけでなく、NHK-BSで放送していただけたり、後日『レコード芸術』誌のカラーページにインタビューを載せていただけるなど、初来日の彼の知名度を上げるという点でも大成功でした。来日中、アムランに付き添い、彼の練習の様子なども垣間見ることができました。大変な難曲を弾くことが予定されていたのに、空港に迎えに行ったときには「今回、何を弾くんだっけ?」と訊かれてしまい、度肝を抜かれたものです。その後、イタリアのピアニスト、フランチェスコ・リベッタを招聘したのも印象深いです。
―木下さんはワルシャワで開催されたアマチュアのためのショパン国際コンクールに出場されていますね。
イギリスのピアノ雑誌『International Piano Quarterly』というのを購読していたのですが、その雑誌で2009年9月にワルシャワで第1回のアマチュア・ピアノコンクールが開催されることを知りました。アマチュアがショパンゆかりの地、ワルシャワのホールでピアノを弾かせてもらえる機会なんてめったにないと思い、過去の演奏なども含めて20分ほどの演奏の録音を送り、無事審査を通過、ワルシャワに行くことができました。1次予選はショパンのポロネーズを含む15分の演奏、2次予選はショパンのワルツを含む20分の演奏、本選はマズルカ2曲を含む25分の演奏という規定でした。第1回のコンクールでファイナリストになることができましたが、十分な準備のできないままでの出場でしたので、次に期したいと思い、3年後の2012年の第2回にはオール・ショパン・プログラムで臨みました。規定が変わり1次でワルツOp.42と舟歌。2次がマズルカのOp.30-3と4、それからバラード4番。本選はスケルツォ2番とノクターンOp.55-2と英雄ポロネーズを弾きました。コンクール前に何度かソロリサイタルの機会も設け、またピアニストの斎藤雅広さんに演奏を聴いてもらい、3つのルールに基づいたアドバイスを頂きました。まず装飾音なども含めて「歌えるように弾きなさい」ということ。それから「ショパンには突然のpや突然のfはない」ということ。3つ目が「同じメロディーや音型が出てきた時、同じニュアンスで弾かないこと」というものです。コンクールでは自分史上、最もうまく弾けたように感じまして、第2回目は3位入賞となりました。
ワルシャワでのアマチュア・ショパンコンクールに出場して、国内のコンクールとの違いを感じました。国内のアマチュアコンクールというと、10分くらいの曲を隅々まできちんと仕上げるという感じですが。アマチュア・ショパン国際コンクールの方は、「たくさん弾くこと」が出発点になっているように思います。一つの曲をきちんと仕上げるために努力することと、多少の不備が残っていても多くの曲が弾けるようになるよう努力することのどちらがよいのかは一概には言えないものの、アマチュアのピアノとの接し方としては後者もアリだよねと気づかされたことは収穫でした。
このコンクールで入賞した後、コンクールには出ていません。アマチュアの人で、先生についてしっかり勉強して、コンクールで結果を出すことを目標に励んでいる方がいらっしゃるけれど、結果が出ることより重要なのは「以前の自分よりも進歩していることと、それが自覚できること」ではなかろうかと思います。私は先ほど第2回のコンクールで3位だったと申しましたが、実はその結果がわかったときにはちょっとガッカリしました。というのは第1回よりもはるかに上手く弾けたと思っていたのに、結果は「一歩前進」でしかなかったからです。しかしいろいろな方々とお話しをするうちに順位は相対評価であり「以前より上手く弾けたという実感が得られていること」にずっと価値があると気づかされました。
―木下さんは、2012年にソニーを退職され、クラシック音楽のコンサート・イベントの企画運営や録画録音を行うJK artsを創業されましたね。大変な決断だったと思うのですが
ソニーではホームビデオ(テレビの下に置くビデオ機器・・・DVDレコーダーなど)を担当した期間が長いのですが、こうしたビジネスの将来はあまり明るくなく、会社で働き続けてもエキサイティングではないのでは?と感じていました。また、中学時代の同級生がすでに音楽関連の事業立ち上げのため脱サラしていましたが、彼の話を聞いているとその業界で生きていけそうに思えました。子供の学費もあと7年間なら、なんとかやっていけるかな、と。次女が大学院に進んだのは誤算でしたが(笑)。
起業当初はコンサートの企画・主催と、コンサートの録画・録音を二つの柱にするつもりでしたが、前者は初回の企画で大赤字を出してしまったこともあり、後者中心に方向転換しました。コロナ禍以降はコンクール応募用の収録の仕事も増えています。そうした短時間で済む案件も含め、今では年間に100~120ほどの収録依頼があります。そして昨年あたりから若手演奏家を支援する意味で、コンサートの企画・主催を増やしつつあります。
―なるほど。JK artsを創業されてから、ピアノをますます弾かれるようになったのでしょうか。
むしろ逆でした。会社員時代はそれなりに忙しかったですが、私だけでなく同僚も土日はお休みですから、自分だけ仕事が遅れている場合を除き、仕事をしなくてもたいてい問題にはなりません。自営業者となってからは、ピアノを練習していても終わっていない仕事のことが頭に浮かび、しかもそれを終わらせられるのは自分しか居ないので、練習に集中できずに仕事に戻らなきゃいけない気持ちになってしまうのです。
―JK arts立ち上げ直後だったと思いますが『ホロヴィッツの遺産』(アルファベータブックス、2014年)を共著で出されていますね。

「ホロヴィッツの遺産」
これは、86年のホロヴィッツの来日に遡るのですが、当時はチケットを買うなら、電話するとか、主催者やプレイガイドに出向くなどしなくてはなかったのです。私は何としても入手したかったのでチケット販売時に主催者の梶本音楽事務所前に早く行って行列したわけですが、行列に並んでいる人はホロヴィッツのファンなわけですので、その人たちと住所交換などもしたんです。その中で会社経営者の石井義興さんと知り合いました。彼は、ホロヴィッツのSP 、LP、CD、ビデオ、DVD、ブルーレイを「すべて」収集したいとおっしゃるので、特にCD全盛時代になってからは私が彼の代わりにいろいろなものの収集を手伝っていました。「すべて」というのは、同じ録音でも発売された国、ジャケットのデザイン、その盤に収録されている曲が違えば「違う」ので新たな収集対象になるのです。そしてホロヴィッツの没後25周年にあたる2014年に彼が全目録を出版しようとおっしゃいまして、それをサポートしてホロヴィッツの命日に合わせて出版できました。私は本の校正を行うとともにホロヴィッツの演奏キャリアを六つの時代に分けて、その特色について解説する文章と、YouTube上で視聴できる彼の演奏に関して執筆しました。石井さんのコレクションは、2021年に東京藝術大学図書館に納められました。

「ピアノ音楽の巨匠たち」
86年のホロヴィッツ来日では、他にもいろいろな人との出会いがありましたが、特に東大大学院生の斎藤博さんと出会ったことも以後の音楽ライフに影響が大きかったです。私は中学3年のころから「ピアノ音楽の巨匠たち」という本で、過去のピアニストがどんな作品の名録音を残しているのかを知っていたのですが、当時「音」として知っていたのはまだわずかだったのです。しかし斎藤さんは私がまだ聴けていなかったものを、まさに「ことごとく」持っていらっしゃって、惜しげもなく聴かせてくださいました。ホロヴィッツの来日が単に「ホロヴィッツの生演奏を聴けた」という体験以上のものを与えてくれたことは運が良かったというだけでなく、私の以後の行動様式に変化をもたらしたと言えます。
―2024年2月10日の朝日新聞の土曜版「be」の「それぞれの最終楽章」で、木下さんのお父様が入所されていた介護施設の方が企画なさったピアノコンサートのことを知りました。
父が最後にお世話になったのは熊本の「われもこう」という古民家を改装した介護施設でした。2009年入所の父は第1号でした。われもこう主催のチャリティー演奏会は2010年からコロナ直前の2019年まで年1回開催され、私は毎年出演しました。ピティナのグランミューズで全国1位となられた熊本の方とのデュオリサイタルの回もありました。父は2014年に亡くなりましたが、そのような機会をいただき、バッハ、ベートーヴェン、ショパン、シューマンなど、誰もが知る大作曲家の作品を演奏しました。
―アマチュアによる弾き合いの場を積極的に設けているとも聞きましたが。
私はピアノを弾く人同士が交流できる場があったおかげでピアノそのものの世界も、そして人脈も大きく広がりました。同じようなことを多くの人たちが経験できることが大切だと考えていましたが、2010年に「ツイッターピアノの会」という社会人サークルが出来たことを知り、それが全国に広がる中で、私は神奈川と東京の幹事を務めています。場を作る、という意味では冒頭に話題となった東大ピアノの会の50周年演奏会もその一環です。ピアノに熱心な仲間の中には、そのことを会社に知られたくないから、と本名を伏せて活動する人も居るのですが、そうした人たちが肩身の狭い思いをしなくて済むような世の中になってほしいと思います。
―小野順二さんのピアノ作品集(小野順二ピアノ作品集、合同会社ミューズ・プレス、2021年)の出版にも関わっていらっしゃいますね。

小野順二ピアノ作品集
小野さんは東大でもソニーでも先輩であり、また彼と私の最寄り駅が同じという時期もあり、もっとも親しくさせていただいた人の一人です。93年にソニーを辞めて故郷に戻り、2019年に亡くなられました。小野さんは連弾曲「雪舞」をはじめ、素晴らしい曲を残しておられ、自筆譜は東大ピアノの会の会室に置かれて会員に折々取り上げられていたのですが、是非広く世の人々に届いてほしいと思い、ご遺族の許可を得まして、ピアノの会の先輩方とともに話を進めました。出版社との交渉や楽譜の校正は主として先輩方がなさって、私は主として曲を知っていただくための録画録音の部分に携わりました。
―昨年(2024年)10月5日には、横浜市のフィリアホールでの「木下淳ピアノソロリサイタル」(コンサートの動画)を聴かせていただきました。これまでの音楽人生の集大成ですね。還暦ということもあったのですね。温かく華のある演奏を堪能いたしました。アンコールの後、サプライズで奥様の歌(ラフマニノフの歌曲2曲)も聴けましたし、ご長女との連弾(ブラームスのハンガリー舞曲)も聴かせていただきました。あれだけの曲を揃えるのは、アマチュアでは、なかなかできることではないです。

リサイタル・チラシ・プログラム
同じようなことをおっしゃる方もいますが、私自身、最近は集中力が持続せず、同じ曲を長時間練習し続けられないのです。ある程度Aを練習したらB,そしてCという感じでないと練習が続かないし、練習した成果は概してすぐに、ではなく「一晩寝てから」現れるので、ある程度練習したらそれでおしまいにしている面もあります。翌日成果が出ていなかったらまたその繰り返しですが、それでも長時間練習をするよりは効率的だと感じています。こうしたことが結果的に一度にかなりの量を弾くことにつながっていると思います。今回取り上げた曲の大半は、一度は舞台で弾いたことがありました。とはいえ30年ぶり、といった作品もあり、最初は「短期間に回復するのだろうか?」といった心配もありましたが、なんとかなりました。

リサイタルで演奏中の木下さん
妻とは東大ピアノの会で知り合いましたが、結婚後、彼女は歌の方に熱心になり、いろいろな歌をあちこちで歌っています。しかし私が伴奏をしてホールで歌ったのは先日が初めてで、よい思い出となりました。長女は小さいときからピアノを弾いていましたが、私たちの音楽ライフを見ていたからなのか、某大学のピアノサークルで熱心に活動していました。私は彼女がピアノとそういう関係になったことを良かったと思っています。
これからも弾き続けていくつもりでいますが、私自身がもう還暦過ぎましたので、自分が弾くことよりは、先ほど述べたような場を作ることや、若い人たちの支援などに時間や労力を割いていきたいと考えています。どこまでお役に立つことやら、とは思いますが・・・
―このたびは、お忙しい時間を縫って、貴重なお話をお聞かせくださり、ありがとうございました。
(聞き手・安永愛)