インタビュー「ピアノとわたし」(20)
服部慶子先生
プロフィール
静岡大学 教育学部・講師。
専門分野はピアノ、音楽教育学や邦人ピアノ作品、洋楽受容史研究。
インタビュー
―先生は、邦人のピアノ作品を専門とされていて、先日のキャンパスフェスタin静岡でも、珍しい邦人作品などの演奏を披露してくださいました。10月に育休から復帰されたばかりのお忙しい中、インタビューもお受けくださりありがとうございます。まず、先生のピアノとの出会いからお伺いしたいのですが
はい、ピアノを始めたのは4歳の時です。両親は特に音楽と関わりがあるというわけではないのですが、母が見つけてきた自宅近くのピアノ教室に通いました。そのピアノ教室の本間洋子先生は有名なピアニストの深沢亮子先生とご親交があって、深沢亮子先生が教室にいらっしゃってお話くださることもあったんです。ですから、とても良い環境で指導を受けられたと思います。
―先生は神奈川のお生まれですね。
はい。父の転勤に伴って年長から小学校4年生までは静岡で過ごしました。ピアノのレッスンには週2回通っていましたね。それから、バレエもやっていました。小学校5年生で神奈川に戻るのですが、また元のピアノの先生のところに通いました。
―かなりピアノには入れ込んでいらっしゃったんですか?
まあ、それほどでもないんですが、それなりにレッスンは厳しかったですね。小学校5年生で神奈川に戻ってから、1回のレッスンは1時間半でした。きちんと練習ができていないと、自宅に電話で連絡が入ってきたりしまして(笑)。でも、母は、花嫁修行の一環としてのお稽古だから、という感じで構えていたみたいです。洋子先生の娘さんの有紀先生がインディアナ大学に音楽留学されていて、その有紀先生が帰国した小学校6年ぐらいからは、1回のレッスンが3時間になり、ソルフェージュのレッスンも始まりと、より専門的な指導になっていきました。
―充実した指導を受けられていたのですね。
―ところで、先生は中学受験はなさらなかったですか?
小学校5年生で神奈川に戻りましたけど、5年生から受験準備しても遅いよ、と言われまして(笑)。ピアノと並行して、バレエのレッスンも続けていました。中学校の頃は、週3、4回、バレエのレッスンに通っていました。
―それは相当ですね!
そうですね。公立中学ですと、部活に入るのが当たり前という雰囲気もあったのですが、私は帰宅部でした。その分、バレエやピアノのレッスンに打ち込んでいましたね。バレエは公演出演者を決めるオーディションなどをよく受けていました。
―バレエにも本格的に取り組まれていたのですね。ピアノの世界は厳しいでしょうから、ずっとピアノ一筋かと思ったら、そういうわけではないのですね。ピアノもバレエもなさっていたというのは、すごいキャパシティだと思います。
中2の頃に、将来のことについて考えてみたんです。バレエはとても好きでしたけれど、バレエを続けて、その先にどういう仕事があるかと考えた時、なかなか難しいんじゃないかと思ったんです。だったらピアノはどうだろうか、と思うようになりました。有紀先生の勧めで中学1年の冬から音楽大学附属高校の冬季や夏季講習に参加していて、そこで学ぶ音楽理論やソルフェージュが思っていたよりも面白かったのもあり、音楽を専門でやってみようかなと思うようになりました。有紀先生が深沢亮子先生の門下生だったこともあり、同門の草野明子先生をご紹介くださって、ご縁のあった国立音楽大学附属高校を目指すことにしました。音楽高校への進学が叶わないリスクも考えて、一般の受験勉強もしていました。
―国立音楽大学附属高校に進学されていかがでしたか?
周りは、音楽の道を目指す人ばかりでしたし、1日6時間の授業のうち、3、4時間くらいが音楽関連の授業でしたらから、音楽に没頭できる環境だったと思います。
―高校時代はどのような音楽家がお好きでしたか?
やはりショパンが好きでした。フォーレやドビュッシーなども弾いてましたが、その時はショパンでしたね。ショパンの曲を弾くことが多かったです。
―国立音楽大学附属高校の皆さんは、国立音楽大学に進学なさるのでしょうか。
多くはそうですが、留学する方もいましたし、早稲田、慶應などの一般大学に進学される方もいました。私は、草野先生が国立音楽大学にいらっしゃいましたので、大学受験は国立音楽大学ピアノ科1本です。
―音大はいかがでしたか?
大学生らしいことをしたいという思いもありまして、他大学と混合のサークルもありましたので、恥ずかしながらテニスサークルに入っていました。
―そういうのも楽しそうですね。
見かねた有紀先生から、遊んでいないで世界の音楽を聴いてきなさいと言われまして、大学2年生の時にザルツブルク音楽祭に行きました。ザルツブルク音楽祭では数々のコンサートが行われるとともに、マスタークラスが開催されて、一流の音楽家の指導を受けることができるのです。でも、セレクションに通らなければ直接指導を受けることはできません。マスタークラスの聴講はできますが。せっかく海外にまで行くのに直接の指導が受けられないのでは残念ですので、ザルツブルク音楽祭の前は、必死で練習しました。ザルツブルク音楽祭では練習環境も整っていて、各練習室にスタインウェイが置かれていました。ポリーニやキーシンのリサイタルを聴くこともできました。またオペラを観ることもできました。3週間、とても充実していました。大学4年時にもザルツブルク音楽祭に行きました。
―それは、素晴らしい経験をなさいましたね。
―国立音楽大学の卒業演奏会ではどのような曲を弾かれたのですか?
デュティーユのピアノソナタです。
―先鋭的で、かつ宗教性も感じせられる素晴らしい作品ですね!坂本龍一も評価していましたね。
―国立音楽大学を了えられて、大学院に進学されたのですね。周りは留学なさる方も多かったのではないでしょうか。
そうですね。でも、留学して帰ってきてもなかなか仕事がない、という現実もあるようだったんです。その頃、国立音楽大学に博士課程が設置されて、研究者の道というのもあるな、と考えるようになりました。演奏と研究と両方やってみよう、と思いました。
―なるほど、そういうタイミングだったんですね。大学院に進学されていかがでしたか?
大学院のカリキュラムは、なかなか過酷なものでした。学部時代の延長では、とてもこなせません。修士を修了するためには、1時間程度のプログラムを組んだ演奏試験を受け、修士論文を提出しなくてはなりません。その前に、公開レッスンやリサイタルの開催、コンチェルト、中間発表、2台ピアノの演奏会など、イベントが盛りだくさんでした。1度発表した曲は演奏試験では使えなかったと思います。
―それは過酷ですね。修士論文を準備しつつ、しっかりとピアニストとしてのレパートリーを増やさなければならない、というわけですね。コンチェルトは何を弾かれたのですか?
ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」です。
―修了時のリサイタルでは何を弾かれたのですか?修士論文のテーマは?
修士論文のテーマはストラヴィンスキーを選んだんです。大学院で指示した花岡千春先生の勧めで。リサイタルの方も、ストラヴィンスキーの新古典主義が反映されたピアノソナタを中心に、バレエ音楽「夜泣き鶯」などを組み合わせて弾きました。
―ストラヴィンスキーのピアノ曲というのは珍しいですね。ストラヴィンスキーを選ばれたのは、先生がバレエをなさっていたことと関係しているのでしょうか?
いえ、バレエでは、チャイコフスキーの「白鳥の湖」とか「くるみ割り人形」などに馴染んでいましたが、ストラヴィンスキーのバレエ音楽などには接していませんでした。ストラヴィンスキーが音楽を書いたのはバレエ・リュスのためで、古典バレエとは系統が違うんです。花岡先生が、ストラヴィンスキーにはピアノ曲もあるよ、と教えてくださったんです。それで興味を持ちました。
―修士課程を了えられて博士課程に進まれるのですね。
はい、その前に1年間研究員を務めました。1930年代に来日していたロシアの音楽家チェレプニンが私費で出版した日本人音楽家の楽譜(チェレプニン・コレクション)が国立国会図書館や近代音楽館に収蔵されていまして、私はこれを調べてみたいと思い、そのテーマを掲げて博士課程の入学試験に臨んだのですが、準備不足で入試には落ちてしまったんです。
―そうでしたか。でも初志貫徹なさったのですね。
はい、翌年大学院に進学し、このテーマで博士論文に取り組みました。
―チェレプニン関連の研究では、どのような文献を読むことになるのでしょうか?ロシア語なども読まれるのですか?
多くは英語の文献ですね。それから、日本人作曲家とチェレプニンの交流の記録も残っているのですが、通訳が入ったということもあり日本語の文献が残っています。国立音楽大学附属図書館には、マイクロフィルム化された多くの資料が収められています。
―まさに、研究の宝庫なのですね。
そうですね。世に知られていない作品がたくさんあります。
―それにしても、チェレプニンは、なぜ日本に来ていたのでしょう?
あの時代(ロシア革命後)、国外に出て行くロシア人は多かったです。ヨーロッパの外部であるということも良かったのではないでしょうか。それからパリ万博で日本の風物に触れて、日本への興味が高まっていたということもあるでしょう。
―チェレプニンがどのような思いで来日していたのか、そして、西洋の音楽を吸収して、自分たちなりの音楽を作ろうとしていた当時の日本の作曲家たちの作品がどのようなものだったか、またチェレプニンがそれをどのように捉えていたのか、興味尽きないですね。
―先生は、静岡大学で教鞭をとっていらっしゃいますが、学生さんたちはいかがですか?
本当に真面目ですね。私の音大生時代を考えても、真面目だなと思います。多くが小・中・高の学校教員を目指していて、目的のはっきりした中で学んでいるということもあると思います。以前は、ピアノ科コースがあって、必ずしも教員を目指す人ばかりではなかったので、また少し雰囲気が違って、その頃は、真面目、というより賑やかな感じでしたね(笑)。
―そうですか。それぞれでしょうけれども、音楽の教員になるには、さまざまな素養が求められると思いますから、先生としても教えがいがあることと推察いたします。
静岡大学教育学部音楽教育専修服部研究室ゼミ生たちと
そうですね。教育学部には美術科もあって、3月には、静岡大学教育学部美術科の教員と組んで、プロジェクターで美術作品を映写したり、美術作品で舞台を作ったりするなど、視覚でも楽しめる公開講座を予定しています。葵区のアイセル21での公演です。まだこれから色々なことを決めて行くのですが・・・
―芸術の分野を超えたコラボレーションの試み、とても楽しみですね。
―先生のお子さんは、今、0歳と2歳とのことで、人生の中で、一番大変な時期と言ってもいいかもしれませんけれども、その中でもこの間のミニ・コンサートで弾いてくださって本当にありがたかったです。
本番があるということが大切なことだと思っています。
―どうですか、先生のお子さん方にはピアノを習わされますか?
そうですね。音楽の道を選んで欲しいとは思いませんが、7歳くらいまでは習ってくれるといいと思います。脳の発達にいいと言われていますし。
―まだ、習ってはいらっしゃらないのですね?
レッスンに行っているわけではないですが、今は幼児向けにCD付きのピアノ教則本もあるので、そういうのを聴かせてます。2歳の長男の方は、ピアノ鍵盤に向かって、歌いながら何か弾いたりしています。
―やはりお母様が弾いていらっしゃるから興味が湧くということもあるのでしょうけれど、それは有望ですね(笑)。先生は、演奏・研究・教育・子育てと全てにわたってこなされていて、さぞかし大変だと思いますが、ZOOMの画面越しからも充実感が伝わってきます。
―ところで、先生のお好きなピアニストは?
フランスのエル=バシャというピアニストです。「幻想」というテーマでCDを作っていまして、その中に「イスラメイ」(東洋的幻想曲)も入っていますが、本当に素晴らしいです。
―ピアノ専攻の先生というと、さぞかしいお小さい子からピアノ一色の生活なのかと思いきや、今日、お話を伺ってみて、バレエも一生懸命なさったというのは、意外なことでした。要所要所での先生の選択の思い切りの良さを感じます。それから、大らかに構えていらっしゃったお母様のスタンスも印象深いです。
はい。良き先生方との出会いに恵まれましたし、運が良かったと思います。
―出会いを活かす先生の感性あってこそと思います。本日は、お忙しい中、お話を聞かせてくださって、ありがとうございました。
(聞き手・安永愛)