インタビュー「ピアノとわたし」(19)

長谷川慶岳先生

プロフィール

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東京藝術大学音楽学部作曲科を経て同大学院修士課程作曲専攻を修了。フランスに留学し、パリ・エコール・ノルマル音楽院作曲科を首席で修了。現在、静岡大学教育学部准教授。作曲や音楽理論を担当。

インタビュー

―今日は、作曲家である先生とピアノの関わりについて、お話しを伺いたいと思います。先生は奈良のご出身とのことですね。

大阪生まれ、奈良育ちです。4つ上の姉がヤマハの音楽教室に通っていまして、私も母と一緒に姉のレッスンについていっていました。3歳頃のことです。それで、「レッスンを受けてみる?」ということになって始めたようです。どんなレッスンだったかよく覚えていないのですが、教室の様子は、今もはっきり覚えています。

―3歳というと、記憶があるかないか、という頃ですね。先生にとって一番古い記憶はその音楽教室の風景だったのでしょうか。

そうかも知れませんね。グループレッスンで、エレクトーンを弾いたり、歌を歌ったり、音感テストをしたりしたことをおぼろげに覚えています。週に1回通っていました。とにかく楽しかったですね。でも、周りの子がみんな弾けているのに、自分だけ弾けなくて泣きべそをかいたことも覚えています。練習もあまり好きではなくて今から思い返すと才能の片鱗すらない感じの平凡な生徒でした。親も、男の子だしまあいいだろう、という感じでした。小学校4年生の時に、ピアノの個人レッスンに変わりました。

ピアノを弾く幼少期の長谷川先生

ピアノを弾く幼少期の長谷川先生

―それは、意外ですね。

でも、音楽はとても好きだったんです。母が音楽好きで、家に10枚くらいクラシックの名曲レコードがありまして、それらを聴いて引き込まれました。

―どんな曲ですか?

ショパンやシューマン、リストなどロマン派のピアノ曲、ベートーヴェンの《運命》やドボルザークの《新世界》などの定番曲ですね。それから、当時はエアチェックというのを皆やっていましたよね。FMのラジオ放送をカセットテープに録音して行くのですが、FM雑誌を細かく読んで、録音しては聴いて、どんどんとカセットテープのコレクションが増えていくんです。当時クラシック音楽の大権威だった音楽評論家の吉田秀和氏の『LP三○○選』(現在は『名曲三○○選』と改題)という本があるんですが、そういうのも読んで片っ端から聴いていくというようなことをしていました。そして、聴いた曲の楽譜が欲しくなって、それを弾いてみたりする。ピアノのレッスンで与えられる曲とは別です。今考えると弾けるはずもないような大曲の楽譜を見ては辿ろうとしていました。

音楽の話を共有できる友達は周りにいなかったですね。まあオタクでした。

―それが小学校の中学年から高学年にかけてのことなのですか。それは随分と早いですね。

小学校卒業の時に、担任の先生から、皆の前で何か弾いてほしい、と言われて、ムソルグスキーの組曲《展覧会の絵》から〈プロムナード〉〈バーバ・ヤーガ〉〈キエフの大門〉を弾いたのを記憶しています。

―それは、すごいですね。当時から先生は体格が良くていらっしゃったんでしょうか。〈キエフの大門〉なんて、和音をしっかり掴める大きな手でないと弾けませんよね。

今でもきちんと弾けないのに、お粗末な演奏だったと思いますよ。体格は良かったのでガンガン弾いていたのだと思います。

―そうでしたか。中学校に上がられてからはどうでしたか?

地元の公立中に進んだのですが、中学高校時代は体育会系でした。陸上部に入って円盤投げなどを頑張っていました。私が通った中学校は陸上部のレベルが高くて、全国レベルの大会で活躍する人が結構いたんです。そうした中で、私も刺激を受けて熱中していました。ウェイトトレーニングが好きでしたね。身体つきがどんどん変化していくのが楽しかったのだと思います。

―そうだったんですね。意外ですが。ピアノは続けていらっしゃったんですか?

レッスンは小学校6年でやめたのですが、運動と並行して、ピアノも自分で勝手に弾いていました。高校では理系に進んだのですが、高3の時、音楽の道に進みたいと真剣に考え出しました。それで、母が東京藝大作曲科出身の先生のところに連れっていってくれたのです。

―その段階で、作曲の道に進むと決めていらっしゃったんですか?

いや、そういうことではなくて、とにかく「音楽の道に進みたい」という漠然とした気持ちでした。そうしたら、その先生がおっしゃるには、ピアノ科はとても無理だけれども、作曲科だったら1、2年浪人すればなんとかなるかもしれない、ということだったんです。藝大作曲科は現役で進学する人は少数派で、当時は2浪3浪が当たり前の時代でした。

―そうなんですか、ピアノでもなく、作曲と決めるでもなく、とにかく音楽がやりたいと。その「音楽」というのはどういうものだったんでしょうか。その時点で、すでに曲を作られていたのですか?不思議にも思いますが。

いや、作曲は全くやったことがなかったです。でも、とにかく音楽の仕事をしたい、と思ったわけです。まあ、若さのエネルギーで、東京藝大に行けば何かあるんじゃないか、と。奈良の田舎にいましたから、単純に「芸術」というものへの憧れが強かったですね。それから、坂本龍一さんの存在も大きかったです。彼が東京藝大の作曲科で学んだということを知って、藝大作曲科に進学したいという思いが強くなりました。私と同年代の当時の作曲科学生は、坂本龍一さんの影響を受けている人が多かったですね。クラシック音楽や現代音楽の知識をベースにして作り出すテクノミュージックやポップス、映画音楽がとても素晴らしかった。今年(2023年)の3月に他界されましたが、坂本龍一さんの音楽は今でも私の指針になっています。

―そうですか。驚きました。高3で東京藝大作曲科に進学すると決められてからは、相当準備をなさったわけですか。

紹介された先生について、藝大作曲科の入試を突破するためにとにかく勉強しました。現役時は準備ができていないので受験しませんでした。そして、1浪目の結果は不合格、2回目の受験で合格しました。

―そうですか。1浪は珍しくないですが、2浪目はやはり精神的にきついこともあったのではないでしょうか。東京藝大以外受けないと決めて、ご家族は、支援くださったのですか?

確かに、2浪目はきつかったですね。幸い父も母も応援してくれました。父は最初、どうやって食っていくんだ、という感じでもあったんですが、最終的には理解してくれました。

―藝大作曲科の入試というのはどういうものなのでしょうか?

ソプラノ課題、バス課題という提示された旋律を4声体に仕上げる試験がそれぞれ3時間、それから5時間でフーガ、8時間で自由曲を作曲します。モチーフはその場で提示されます。それからピアノの実技やソルフェージュもありました。

―それは過酷な試験ですね。作曲というのは、音楽史なり、楽典なりを勉強すれば誰でもできるようになるものなのでしょうか。

そうですね。最初は、こういうものを作れるようになりたい、と思って真似していくわけです。でも、結局はいろいろな音楽を聴いて、自分でも何か作ってみたい、楽譜を書いてみたい、と思えるかどうか。そこには大きな壁があって、それを乗り越える人が作曲する人になるんだと思います。映画なんかでもそうでしょうけれども、映画を観て、ただ鑑賞するだけでなく自分でも作ってみよう、作ってみたいと思えるかどうか。

ただ、今後はAIの助けなどを借りて、イメージさえあれば誰でも音楽を作れる時代になるかもしれませんね。

―作曲科の入試準備中も、ピアノは弾いておられたのですか?

試験科目でバッハの《平均律》を弾かされますので、毎日2〜3時間弾いていました。ピアノを長時間弾くのは全く苦痛ではなかったです。いろいろな作曲家の楽譜を買って、手当たり次第に弾いていました。

―そうですか。それはかなりの打ち込みようですね。やはり、ピアノが作曲のインスピレーションになっているのですか?

作曲するときは、必ずピアノで音を確かめます。頭の中だけで作曲する人もいるようですが、私にとっては実際にピアノで響かせないと作曲は進みません。なんといってもピアノは新しいハーモニーを発見するのに最適な楽器ですから。

―東京藝大に入学されていかがでしたか?

大変なところに来てしまったな、という感じでした。すごい才能の人たちが集まっていました。藝大に行けば何とかなるだろうと思っていましたが、行ったからといってどうなるものでもない、大変な世界だなと思いました。

―作曲の授業というのはどのようなものなんでしょうか。

いわゆる講義という形式ではなくて、自分が書いた譜面を持っていって、それについて、先生が色々と指摘してくださいます。体系として教える、というより、そうやって個々の作曲の事例に即しながら、コメントをもらっていくという感じでした。藝大作曲科の入試では、調性音楽を基本的には作るわけなんですが、―無調の曲を書いて合格した人もいるとも聞きましたが―入学してからは、現代音楽を書くことになるんです。

―どのような先生が教えていらっしゃったのですか?

《大地讃頌》で有名な佐藤眞先生、《落葉松》で有名な小林秀雄先生、それから林光先生、福士則夫先生にも教わりました。

―そうですか。そういった先生方がいらっしゃっても現代音楽を書くのですか。現代音楽というのは、シェーンベルクの12音技法のようなものですか?

それよりもっと先の、とにかく最先端の作曲ということです。音符や演奏の指示が多すぎて真っ黒な楽譜を書く作曲家もいます。

―なるほど。それは大変ですね。

それで、何をやったらいいのかわからなくなって、曲が書けなくなった時期もあります。私の能力の限界かもしれませんが、現代音楽、特に音使いがランダムな音楽や、抽象的な音楽は自分には縁遠いように感じていました。

東京藝大作曲科を出ても、皆が作曲で食べていけるわけではない。学校の音楽の先生になる人もいますし、フリーの音楽家になる人もいます。普通に就職する人もいれば進路のよくわからない人もいます。私はまあ、なんとなく大学院に進みました。そして3年かけて修士課程を了えました。

―作曲科の修士というのは、修士論文を提出するのですか?それとも作品を提出するのですか?

当時は論文はなしで作品提出のみでした。私はフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンの影響の色濃い管弦楽曲を作曲して提出しました。

―オーケストラで演奏されたのですか?

運よく第69回の日本音楽コンクールに入選しまして、東京のオペラシティでプロのオーケストラによって初演されました。学生時代の総まとめというべき作品が、実際に音になって嬉しかったですね。

―それは素晴らしいですね。

―先生は、その後、パリに留学されていますね。大学から派遣されてのことなのですか?

そうではなく私費留学です。10ヶ月ほどですから、長く研鑽を積んだというわけではありません。

―フランスを選ばれたのは?

当時、作曲を勉強するのにフランスに渡る方は多かったですね。私はパリのエコール・ノルマル音楽院作曲科で、当時フランスに在住されていた平義久先生の下で学びました。フランス語はあまり出来なくて苦労しました。

―フランス留学はいかがでしたか?

そうですね、作曲家に限らず、とにかくフランス人は一人一人「個」がしっかり立っているなと、その強さを感じました。やはり、日本人は集団に流される部分がありますが、そういうのとは違うなと。演奏会はたくさん聴きに行きました。ポリーニやブレンデルなどピアノの巨匠の演奏を生で聴けたのは貴重な体験です。ポリーニの音色の美しさは忘れられません。教会でモーツァルトの《レクイエム》を聴いたことも印象に残っています。

―帰国された後は?

大阪音楽大学に10年勤めたのち、静岡大学教育学部に移りました。

―大阪は故郷とも近かったと思いますが、静岡に移られたのは?

大阪音楽大学ではソルフェージュを担当していましたが、違うことをやってみるのも良いのではないか、と深い意味はないですが、そんなことですね。

―静大にいらっしゃってからは、静岡県立美術館のロダン館での演奏会の開催などにも関わって来られましたね。ロダン館のコンサートのために作られた長谷川先生のピアノ作品を同じく教育学部の後藤友香理先生が演奏されたCD『ロダンをめぐる8つのイマージュ』が昨年リリースされました。

CD「ロダンをめぐる8つのイマージュ」(2022年)

CD「ロダンをめぐる8つのイマージュ」(2022年)

後藤先生はとにかく深く解釈してくださる、よく考えて弾いてくださるんです。こちらが想像していたこと以上の表現が出てきたりします。それと音色が洗練されて都会的ですね。

―長谷川先生から、こんな風に弾いてほしい、というような指示や要望は出されないのですか?楽譜が全てでしょうか?

楽譜以外の指示や要望はあまり出しません。せっかく演奏者が深く考えて演奏してくれているのに、余計なことを言ってはぶち壊しですから。後藤先生がロダン館コンサートの企画をいろいろ工夫されて、作曲の「お題」をいただくのですが、毎回チャンレンジングで私も楽しんで作曲しています。

―素晴らしいコラボレーションだと思います。多くの方に聴いていただきたいです。『ロダンをめぐる8つのイマージュ』を家で聴いていましたら、普段あまりクラシックを聴かない次男が「これ何?いいね。あとでCD貸して」と言ってきました。後藤先生にその話をしましたら、「長谷川先生も「ポストクラシカル」とご自分の曲を捉えていらっしゃって、普段、ポップスやロックを聴いている人にも耳なじみがいいのかも知れません」とおっしゃっていました。

「ポストクラシカル」というジャンルには興味を持っています。最近の一種の流行りかもしれません。ただ耳馴染みが良いだけではなく、自分なりの個性や工夫も盛り込みたいと考えていますが。

―先生の作品からはフランス音楽の影響を強く感じます。

そうですか。ドイツ・オーストリア系の音楽もロシアの音楽も好きなのですが、フランス音楽の影響が強く感じられるのですかね。作曲家では、ラヴェルの職人的な作曲の技術に深い敬意を覚えています。受験生時代にフォーレのピアノ四重奏を模して曲を書いてみたこともあります。ベートーヴェン的な構成がはっきりした、がっちり構築された音楽はどちらかと言うと苦手です。

―推移していく、とそんな感じのする音楽が好みなのですね。

―『ロダンをめぐる8つのイマージュ』の作品の中で、先生として特に印象深いのはどの曲でしょうか。

《バラの髪飾りの少女》ですね。機能和声ではない私独自の和音の連結によってハーモニーを作っていったところに自分なりの達成感がありました。とにかく手探りで和音を見つけて作曲しました。

―透明でリリカルな音楽ですね。

Youtube:2021年12月18日開催コンサート「目で見る音楽、耳で聴く風景 ~ロダンとフランス音楽のひととき~」

―ところで先生は映画がお好きで、無声映画のピアノ伴奏をなさることもあるとのことですね。

10月に早川雪洲主演の《タイフーン》(1914年)という無声映画を東京の国立映画アーカイブで伴奏させていただきました。来週も同じく国立映画アーカイブでの返還映画コレクション(アメリカ議会図書館から戦後返還された約1,400本におよぶ戦前・戦中期の日本映画)の上映作品の一つ《警察官》(1933年)のピアノ伴奏を務めます。2時間、弾きっぱなしという過酷なものです…。

―それは、大変ですね。

セリフは字幕に映し出されるのですが、全編に渡って音楽が流れている形になるのです。映像を見ながら、また用意した楽譜も見ながら伴奏をつけていきます。既存の曲もあれば、新たに作ったフレーズ、即興するフレーズなどあります。以前は完全に即興で伴奏をつけることもありましたが、最近は事前にある程度準備することが多くなりました。

―興味深い試みです。静岡でもそうしたパフォーマンスを観られると良いですね。その準備もある中で、インタビューにお答えいただきまして、誠にありがとうございます。先生は、どのようなピアノがお好きですか?

スタインウェイの響きが好きです。特に高音のキラキラした感じが。もちろんヤマハ、カワイの最上位機種は遜色ありませんが。15年ほど前に関西で無声映画の伴奏をしたときに弾いたスタインウェイは本当に素晴らしくて、いつまでも弾いていたくなりました。

―ピアニストでは、どなたがお好きですか?

クラシックだとホロヴィッツとミケランジェリ、グレン・グールド、ジャズだと断然ビル・エヴァンスです。皆独特のタッチを持っていて個性的な音色を出します。音色の美しいピアニストに惹かれます。ホロヴィッツは時々とんでもない轟音を出しますが、特に晩年の弱音の美しさは比類がありません。

―それぞれ、独自のスタイルを持っていますね。ジャズもお好きなのですね。これから、先生がどんな曲を作って行かれるのか、楽しみにしております。本日はありがとうございました。

(聞き手・安永愛)