インタビュー「ピアノとわたし」(24)

福留恵子先生

プロフィール

福留恵子の写真

株式会社NTTデータ勤務、東海大学専任教員を経て、現在は同大非常勤講師。専門は社会学・公共政策。

インタビュー

―福留さんの演奏を折々聴かせていただいていますが、ピアノと対話するかのような知的かつ情熱的な福留さんの演奏に、いつも感銘を受けています。今日は、ピアノとの出会いからお話を伺いたいと思います。

ピアノとの最初の出会いは、赤い卓上ピアノかもしれません。いくつか持たせてもらったおもちゃのなかで、どうしてこれでばかり遊んでしまうのだろうと、子供心に不思議だったのを思い出します。本物のピアノを特に強く意識したのは、そのあとしばらくして、テレビでショパンのノクターンを聴いた時です。今度は音色の美しさに惹きつけられました。

けれども、それから10歳でピアノのレッスンに通えるようになるまでには、ちょっとした紆余曲折がありました。物心ついた頃から歌好き、音楽好きではあったようなのですが、そんな様子を見てか、両親は最初、ヤマハ音楽教室を訪ねてくれました。ひよこのバッジをつけたりして楽しく通いましたが、音楽教室は最長でも3年で終わり。簡単な楽譜を読むことは教わっていますから、そのあとは、自分で子供のためのピアノ曲集などを探してきて弾きました。

「ピアノのおけいこ」テキスト

「ピアノのおけいこ」テキスト

レッスンへの憧れが募っていた当時の思い出に、NHKの「ピアノのおけいこ」があります。井内澄子先生や深澤亮子先生などが講師をされていた頃です。深澤先生のお母様が書かれた『ピアノの日記』を図書館で見つけて読んだことも思い出します。「ピアノのおけいこ」では、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンといったオーソドックスな曲だけではなく、当時には珍しく近・現代の曲も取り上げられたり、子供にも連弾を教えたりしていらして、毎回楽しみでした。ずっとあとで私が東海大学に勤務するようになって、井内澄子先生がそこで名誉教授になっていらっしゃることを知った時には、結局私は井内先生のところに戻って来たのか、とでもいうような気持ちがしました(笑)。もちろん、一面識もないのですが。

そうした時期を経て、ようやく近所の先生のお宅にレッスンに通うようになりました。最初の1年ほどで、バイエル後半からソナタアルバムまで、ツェルニーの練習曲、それに私がそれまで使っていた楽譜の中の曲まで、いろいろな曲を弾かせてもらって楽しかったけれど、それは先生が総点検をしてくださったのだろうと今は思います。その後はソナタアルバム、それからロマン派の曲などにも取り組み、とオーソドックスと思われるレッスンが続きました。ただ、すでに友達と弾きあったり連弾したりする楽しさをおぼえていたので、中学校では、昼休みの音楽室で友達4~5人とピアノを囲んだりもしました。中3後半には受験でレッスンをお休みしましたが、その間も「昼休みのピアノ会」は大切な時間でした。

そして、都立国立(くにたち)高校に入学してみると、そこには音楽部(合唱部)があり、演奏会にコンクールにととても活発に活動していました。中学で音楽の部活ができなかった私には、まさに「ハモり解禁!」「アンサンブル解禁!」。本当に嬉しかったです。最初はアルトのパートで参加したのですが、あまり喉が強くないこともあって、結局半年後に伴奏を担当することにしました。中田喜直の「都会」、團伊玖磨の「岬の墓」、「海上の道」など、高校生には少し珍しかった曲も演奏しましたが、高田三郎、佐藤真、大中恩などの当時よく演奏されていた曲にも親しみました。三善晃や萩原英彦の作品は、まだ高校生が歌う例は少なくて残念。一方、コンクールの課題曲として取り組んだのは、あまり演奏される機会のない西欧の宗教曲でした。

これは大学時代、私より少し上の世代の方に伺ってなるほどと思ったのですが、日本の戦後、まだそれほど経済的に豊かでない時期には、多くの音楽好きが楽器がなくてもできる合唱に流れ込み、それを受け止めるように力のこもった曲も作られることになった、と。そのためか、たしかに、それからしばらくの日本の合唱には、演奏にも作曲にも、独特の熱意が感じられますし、典型的なクラシックとは少し異なるリズムやハーモニーを取り込むことにも積極的ですね。そうした合唱曲のピアノパートを弾くのは、私にとって背伸びする部分もあり、とても弾き甲斐がありました。それに、典型的なクラシックを外れることに抵抗がなくなったということもあるかもしれません。

このころから大学受験の少し前まで新しい先生にレッスンを受けるようになり、それを最後に定期的に受けるレッスンはつい最近まで長く中断することになります。そしてその先生が繰り返しおっしゃったのが、「本当の先生は自分の耳でなければならない」「弾くのはあなたなのですよ」ということでした。それはその先、何とか続ける道をつけてくれる言葉になりました。「耳が先生」の前提には、「耳を開く」ことがあります。私流の言い方をすると、自分の出す音が自分に十分に聴こえてはいないことに気づき、聴くことのできる耳を作るとでもいう意味ですが、これは、もともと『耳をひらいて心まで』の著者佐々木基之氏の言葉であるようです。耳を開き、自分の音を聴いて、本当に出したい音とのギャップを埋める、それが耳を師として弾くということになります。そして、そのために必要なこと、自分に足りないことがあれば、自ら師を探して教えを請え、「弾くのはあなた」にはそのような意味までが含まれていました。それは先生ご自身の姿勢であり、実践してきたことでもありました。先生は、音大での勉強や卒業後の仕事の傍らで、自ら、それもピアノの演奏ばかりでなく音楽全般についての指導を求め、勉強されていました。そのなかに、佐々木氏の教室や、齋藤秀雄氏の指揮の教室などが含まれていました。

大学受験を前に高3のはじめにレッスンはお休みしました。威張ってこんなことを言えるほどの成績だったわけではないのですが、受験勉強とはどうにも相性が悪くて退屈でたまらなく、それもあってピアノとレッスンには後ろ髪を引かれる思いでした。もっともそういう後ろ髪なら、私の人生のいつの時点でも引かれ続けているような気もしますが(笑)。

―東大ピアノの会に入会されるわけですね。

入学直後に父が急逝したこともあって、学内のことを知るのが少し遅くなり、結局、サークルの存在を知って会室を覗いたのは7月近かったような気がします。薄暗い寮の奥にある部室のドアを勇気を出して叩いてみたら、そこにいるのはピアノが好きでたまらない人たち、ピアノの「主体性の塊」といった人たちでした。「弾くのはあなた」のリアルな出現を前にして、「それはレッスンをやめたときに置いてきたのではなかったか」と、軽い混乱すら覚えました。とにかく熱量がすごかったですね。難しい曲や人の知らない曲もどんどん弾く。音楽への知識欲も底なし、音楽談義も熱かったです。専門でなくてもそうして真剣にピアノに取り組む人たちに出会って、好きにやっていいんだというか、もうやっているじゃないか、と心が解き放たれたように思いました。

ピアノの会で出会った方々の中でも、特に印象に残っているお一人が小野順二さんです。素晴らしいピアノの技量の持ち主でしたが、入会当初の私には、自分の耳で自分の音をじっくり聴き、妥協なしに音楽を紡ぐその姿勢が衝撃的で、まさに「リアル・自分の耳が先生」(笑)。後輩たちにも気さくに親切に接してくださる先輩で、私も演奏会の後や会室でピアノを弾いている時などに、よくアドヴァイスをいただきました。特に、小野さんの作曲された「邯鄲の夢」を学内の演奏会で「初演」させていただいたときのアドヴァイスは、楽譜と逐一照らし合わせながらの本当にきめ細かなものでした。演奏がそれだけ頼りなかったということでもありますが(苦笑)。

―小野順二さんは残念なことに亡くなられましたけれど、遺作を集めた楽譜「小野順ニピアノ作品集」(ミューズ・プレス)が出版されましたね。福留さんもその出版に関わられ、「邯鄲の夢」の演奏動画もアップされています。ラヴェルなどフランス近代音楽の影響の感じられる非常に洗練された曲風です。連弾曲の「雪舞」、初期のピアノ独奏作品「虹」も含め、多くの方に弾いていただきたいですね。

はい、そうなると嬉しいですね。直接存じ上げない方も演奏してくださっているというネットの記録などに出会うと、小野さんを知る人に触れ回ったりして喜んでいます(笑)。

ピアノを介して出会った方々の話になりましたが、時を経て痛感するのは、そうした方々ともピアノに関わっていたからこそお会いできたのだということです。一方、社会人になってからは、練習時間が取れないことが続いたりして、もうこのままやめるのかな、と弱気になることもありましたが、そう思い始めると不思議と伴奏を頼まれたり、ピアノの先生を紹介されたり、そんな風にどなたかが現れて呼び戻してくれる、ということになりました。私が今、弾き続けていられるのは、そうした方々あってのことですね。ピアノが人とつながり、人がピアノとつながり、それが混然一体としています。

2013年3月、自由学園明日館にて。(ショパン「エチュード」より)

2013年3月、自由学園明日館にて。(ショパン「エチュード」より)

2017年3月、船堀タワーホールにて。(ショパン「24のプレリュード」

2017年3月、船堀タワーホールにて。(ショパン「24のプレリュード」より)

―ピアノを通じて知り合う方というのは、急速に距離が縮まる感じがします。それはなぜだろうか、と以前、福留さんにお尋ねした時のお返事が私には印象深いです。「ピアノに向かうとき、人は、とても精神的に集中し、密度の濃い時間を経験する。だからそういう経験を共有できている人とはすぐに通じ合える」と。

第48回 国際芸術連盟新人オーディション合格 新人推薦コンサートチラシ

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人との出会いやつながりという点では、また少し違った経験もしました。社会人になってからもピアノを続ける中で、音楽を専門とする方々と演奏の場面で接することが増えてきたのです。たとえば、合唱のステージをそうした方々と曲ごとに手分けしたりアンサンブルで伴奏するとか、ピアノ以外の楽器や歌を伴奏するといった形で。そうしているうちに、何か見えない境界のようなものを感じるようにもなりました。プロとアマに違いがあるのは当然でしょうが、ここで言う境界はもう少し微妙なもので、少しでもいい演奏をできるように前に進もうと思っているだけのつもりでいるときに、横から「そのくらいで十分でしょ」と言われてしまうような感じ、見えない壁にコツンと頭をぶつけるような感覚、とでも言えばいいでしょうか。これは何なのだろう?と思いました。

それが息苦しくもなり、これが何なのかを知りたくもなり、それならばともかく自分からは後ろに引かないでいてみよう、そうしたらどうなるだろうかと思いました。具体的にとった行動は単純で、たとえば、演奏に誘われたり依頼されたりしたら断らない、演奏の機会があるときには自分から引き受ける、という原則を立てて活動してみるようにしました。そして、その場で生じる接点がアマチュアの方とであろうとプロの方とであろうと、こちらからは言動を変えないように努めました。また、そこで出会ったプロの方々の一部にご意見をうかがったこともあります。10年近く試行錯誤しましたが、思うところあって今は全く同じやり方では続けていません。

その経験でわかったことの一つは、この「壁」に社会的な要因もあるらしいということ。演奏やそれに関わる概念や用語を共有しているか否かとか、仕事をめぐる調整のネットワークに参加しているか否か、その参加の条件の違いとか。これは心理的な壁とも音楽そのものの違いとも少し別の要因で、見方を変えるとやりようによってはその影響力を弱められるかもしれない要因とも言えます。これは特にアマチュアが納得できる演奏を目指し続けるには大事なところかもしれません。

同時に、そのとき出会った方々から、演奏の「経験の厚み」を感じさせられたようにも思います。それは立った舞台や弾いたピアノ、曲の数だけではもちろんなく、ステージやそこに至るまでに聴いてきた音、共演者や聴き手との相互作用、そこで起きた自身の心身の反応、そのときどのように対処したかという記憶。そうしたものが層になって、それぞれの方の中にある。今はそのように感じ、敬意を抱いています。

―福留さんは、ドイツの銘器ブリュートナーをお持ちですね。

私は研究所勤務とはいうものの企業人から大学教員へとキャリアを転換していますが、このピアノを購入したのは、ちょうどその転換点でのことです。会社で業務として取り組んでいたテレワークやITの社会的要因の研究をもう少し深めたいと、大阪大学大学院の社会人学生として博士論文を書いたのですが、その流れのなかで東海大学の教員に転じることになりました。そうした節目にあって、先の人生を共に歩めるものをなにか手元に置きたい、と考えたとき以前から紹介をお願いしていたピアノが見つかったので、購入することにしました。弾くうちにピアノの音も自分の弾き方も互いに次第に変わってきて、本当に一緒に歩いている感じになってきましたが、そうした経験をできるのは、とても有難く幸せなことだと思います。

―福留さんのご専門とピアノの関係というのはどのようなものか、と以前お尋ねしたことがありましたが、研究は「言葉」の世界、ピアノは「言葉」ではない世界ということで、それによってバランスが取れている、と伺ったことが印象に残っています。

バランスが取れている、と言い切っていいかどうかは難しいですが……。言葉にも音楽にも多様な側面がありますから、本当はあまり不用意に対比してはいけないと思っていますが、あのとき私が念頭に置いたのは、主に言葉の意味や論理性に関わることです。学問や思想は言葉のこの側面に多くを負っているわけですが、そうした営みのなかで、反面、言葉に置き換えにくいものがそのままこぼれ落ちていってしまうのではないか、と感じることも少なくありません。そういうことは避けたいと私は考えています。ピアノを弾く行為の中にはそうした言語化されにくいものを掴めると思える部分があります。たとえば、躍動感とか空気の状態とか、すぐにははっきりとさせられない気分や雰囲気、そういったものは特定の語彙にはなかなか置き換えられませんが、ピアノの演奏ではそれが表せることもある。表せなくとも、言葉にならなかったものをそこでもう一度救い上げようとして心に刻むことにはなります。ピアノを弾く行為のうちには、そうした論理や言葉や語彙に収まらないもの、論理的言語と距離を持ったもののリアリティに加えて、身体性のリアリティの回復ということもありますね。そこに自分の身体反応からものを作り出すという疑い得ないリアリティ、自信というものが生まれるのです。それもピアノを弾くことの喜びではないでしょうか。

ところで、こうして、今も弾いていられることの有難さを振り返ると、「ワーク・ライフ・バランスとは、仕事と仕事以外にしたいこと・しなければならないことの両方に取り組めること」という主旨の、社会学者佐藤博樹氏などによる定義が思い出されます。私のピアノはこのライフに当たるのだろうか。そして、ライフの典型として育児が挙げられるのは、批判はありながらも今もよく見られることですが、たとえば育児と私のピアノを同列に置くことになれば、それは妥当なことなのか。そうしたことから、ワーク・ライフ・バランスとは何なのかを、もう一度考えさせられてしまうのです。

さきほど、プロとアマの境界をめぐるささやかな試みの話をしましたが、あのように演奏の誘いや依頼は断らないというやり方で少し自分を追い詰めていたとき、頭の中にはそのような疑問、これで私のワークとライフはどうなってゆくのかという疑問もありました。安永さんもおっしゃっていたけれど、そもそもピアノ演奏というのは片手間でできるようなものではない。確かに、ピアノ演奏には、そういう果てしなさ、ひたむきに心をかたむけざるを得ない要求の厳しさがあります。それを繰り返し思い知らされることになりました。それにもう一つ、続けてゆけばゆくほど、いろいろな方との関わりが複雑になってきます。するとそのなかで、仕事でないことを理由に水準を落とすことはできない、なにより穴を開けられないという責任が生じ、撤退も必ずしも容易でない場面が出てくる。自分一人の問題ではなくなるのです。そうなると、ワークとライフで私の体の奪い合い、ということが起こるんですよね。仕事とそれ以外のこととに取り組むとは、このようにもなってしまい得るものかと思わされました。

この先、人が一人でいくつものことにバランスよく取り組むことが求められる場面は、増えてくるのだろうと思います。それが社会的要請であれば、応える人が報われることもとても大事です。でも、ひとつのことに心をかたむけなければ成し遂げられないこともある。そのなかで、ひとつのことに心をかたむける自由もまた、受け入れられる世の中であってくれますようにと思います。それがなぜ、どのような意味で重要で、そのために何をしたらよいのかを明らかにすることは、学問が引き受けるべき課題でしょうね。

ではウェルビーイングはどうか、ピアノはウェルビーイングをもたらしたかというと、私の場合には「どうなんだろう?」と思います。ピアノは私に多くを与えてくれているのですが、なかには苦しい経験も少なくありませんから、そうした経験をする必要があったのだろうかと思わなくもありません。ただ、そのプロセスで考えさせられたことや、自分とは違う生き方について想像しなければならなかったことは多くありました。そのように自他の生を考えながら生きられることがよい人生なのだとしたら、ピアノが私にもたらしたものは紛れもなくウェルビーイングだということになると思います。

―さて、最後ですが、福留さんのお好きな作曲家や演奏家を教えていただけますか?

三つ子の魂百までで、ショパンの醸す響きには今も逆らえません(笑)が、バロック・古典派・ロマン派から近現代まで、好きな曲は多様です。スラヴ・北欧・東洋などの民族音楽的な要素の入っている曲を好む傾向はあるかもしれません。演奏家に関して言うと、誤解を恐れずに言えば「自分」かな(笑)。普通の意味で好きなピアニストはたくさんいます。スクリャービンのOp.2-1のエチュードならホロヴィッツ、チャイコフスキーの「秋の歌」ならプレトニョフ、とかね。でも、それぞれこのパッセージは自分だったらこうは弾かないとか、そういった違和感のある部分はどうしても残る。他人なのだから当たり前ですよね。そこも思い通りに弾いてくれるピアニストがいたらもっと好き……つまり私の言っている「自分」は、頭の中にしか存在しない「プライベート・ヴァーチャル」な自分ですねぇ(笑)。まぁ、でも、だから敢えて自分で弾こうと思うのではないでしょうか。

―なるほど! 素敵なお言葉をいただきました。ショパンのエチュード全曲を学ぶために最近、新たにレッスン通いを始められたとのこと。またピアノを聴かせていただきたいと思います。大学時代以来、折々お話を伺ってきましたが、今日初めて聞くこともたくさんありました。お話を聞かせてくださって、本当にありがとうございました。

(聞き手・安永愛)