インタビュー「ピアノとわたし」(27)
藤田たりほさん
プロフィール
静岡英和女学院高校・同短期大学英文科、静岡大学人文学部言語文化学科(フランス言語文化コース)卒業。英語講師の後、2016年から2022年まで公立中学英語教員。静岡日仏協会会員。
インタビュー
ー先日は、角野隼斗の武道館でのコンサートご一緒させていただきまして、ありがとうございました。角野さんのコンサートはチケットは抽選となり、チケットを取れなかった方も多かったと聞いています。藤田さんが、ファンクラブ会員に入っていて下さったおかげで、チケットを確保することができ、感謝します。とにかく藤田さんのピアノについて語る言葉がとても熱くて、直感に満ちていて。それで、一度じっくりピアノとの関わりについてお話いただきたいと思い、インタビューをお願いいたしました。藤田さんは浜松にお住まいですが、そちらのご出身ですか?
いえ、主人の姉が国際結婚で渡独し、一人残った藤田の母と同居の為、浜松へ転居しました。私の祖先は、家康の家臣だった天野康景です。三河の方です。家康と共に駿府城に移りました。私は静岡で生まれ育ちました。ピアノの最初の思い出は、一番上の兄(生きていれば今85歳です)が、フランス人形とともに私に贈ってくれたおもちゃのピアノです。「ド」から「ド」までの1オクターブの鍵盤でした。私が4才の頃のことです。小学校5年から中学にかけては、短波放送で外国語の歌を聴くのが好きになりました。もともと母(明治生まれ)が洋画に連れて行ってくれて、「第三の男」など外国のものが好きだったんですね。1960年代に10代を過ごしたわけですが、アルジェリア戦争、ベトナム戦争、プラハの春、フランスの5月革命など、そうした世界の激動を感じながら過ごしていました。そうした中でアラン・ドロンに夢中になりました。1964年のこと、大阪城に修学旅行で行ったのですが、その時、松下電器の工場見学に来ていたアラン・ドロンを偶然見かけまして、握手したんです。
フランス語の表現で「ココナッツを揺らす」と言う言葉があって、それは「古いものを覆す」と言う意味なんですが、そういう新しい動きに共感を持っていました。私は団塊の余波の世代で、公立中学校は1クラス57人で13クラスもありました。ピアノを習っていたのは、クラスで1人いるかいないか位でした。私はピアノは習っていませんでしたが、小学校6年のとき、運動会の入場行進曲を演奏するということがあって、運動場でオルガンを演奏したんです。それは嬉しかったですね。中学に入る頃には、ギターを買って貰い、独学して弾きました。当時、反戦運動に結びついて、ギターでフォークを歌うというブームがありました。私は、目の調子が良くないこともあって、楽譜が読めないんですが、ギターは、コードを手の位置で覚えたりできるので、取り組みやすかったんです。
反戦と結びついた歌に心惹かれるものがあったけれど、中学時代の頃は、話の合う友人はいなかったように思います。でも、音楽の先生が、音楽室のレコードを聴いていいよ、と貸し出してくださったんです。休み時間に音楽室に行って、一人でバッハやベートーヴェン、モーツァルト、ショパンなどを聴いたりしました。
1968年は、パリで5月革命が起こり、日本でも学生運動が盛り上がりをみましたね。その頃、世界中で「伝統」や「戦争」からの「旅立ち」を求める機運が高まっていたと思うんです。1970年の大阪万博は古いものから脱却し、自由を求め、自分たちが近代化していく、そういう流れに乗っていたと思います。そうした中で私はビートルズに夢中になりました。お小遣いをレコード購入に注ぎ込んでいました。日本初来日の武道館でのコンサートを聴きにいきました。自己主張を始める新しい表現、自分の柔軟性から生まれる湧き立つような音楽にワクワクしました。ポール・マッカートニーの「レット・イット・ビー」などのバラードは、モーツァルトの影響を受けていると言われますが、彼らのクラシックを吸収して新たな表現にする、その工夫や気概に惹かれていました。
そして、ジャズ・ピアニストのデイヴ・ブルーベックに傾倒していきました。「テイク・ファイブ」が特に有名かと思います。ブルーベックは、母親からクラシックの手解きを受け、カリフォルニア州オークランドのミルズ大学でフランス人の作曲家ダリウス・ミヨーに師事するのですが、ミヨーが「ジャズをやるといいよ」と言ったったそうです。ブルーベックは、クラシックの中にジャズを取り入れていくんですね。4分の7拍子とか、8分の9拍子といった変拍子の使い方も独特ですし、繰り返しの中に、転調や変拍子、即興対位法が入っている、多調性における実験、その作風に夢中になっていきました。革新の証となったブルーベック(2012年逝去)の残した曲は400曲。人種差別に反対し、市民権運動にも参加していました。ブルーベックの評価はとても高くて、クリントン大統領から藝術勲章を授与されていますし、全米アカデミー功労賞、スミソニアン勲章、ミシガン大学音楽協会から著名なアーティスト賞を受賞しました。 ライス米国国務長官から「公共外交に対するベンジャミン・フランクリン賞」を授与されたり、2003年アメリカクラシック音楽の殿堂入り、カリフォルニア歴史・女性・芸術博物館にあるカリフォルニア殿堂入りを果たしたり、ニューヨーク州ロチェスターのイーストマン音楽学校で名誉音楽博士号を取得したり、バークリー音楽大学から名誉音楽博士号を授与され、2007年ケネディセンターから、芸術振興国際的オーストリア最高賞、フランス政府表彰、ロンドン交響楽団功労賞、2009年オバマ大統領からケネディセンター賞等等授与されています。社会的な影響力も持った「生きた伝説」として指定されたアーティストでした。今も、ブルーベックの子供達が彼の音楽を引き継ぎ、演奏活動しています。
ブルーベック・カルテットのレコード・ブルーベック・カルテット
他に、ジャズピアノを弾くビル・エヴァンスはブルーベックとは違い、「孤高のピアニスト」風で、クラシックで言ったらグレン・グールドのような人でしょうか。
―なるほど。60年代、70年代というのは、日本の歌謡曲の全盛期でしたけれど、藤田さんは、そうした日本の音楽よりも、外国の音楽に惹かれていらっしゃったのですね。
そうですね。そういう思春期から青春期にかけての音楽経験がベースにあったせいもあるかと思うんですが、5年前のこと、ピティナ・コンペティション特級でグランプリを受賞された角野隼斗さんのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴いて魅了されました。当時東京大学の大学院生だった角野さんは、その後、音楽の道で生きていくことを決めて、新しい仕方で音楽を発信していくようになりました。かつてのビートルズが複雑な古さを打ち破っていくような力を角野さんにも感じました。彼の演奏は、弾く楽しさ、音楽の楽しさがダイレクトに伝わってきます。
角野さんの弾くガーシュインの「ラプソディ・イン・ブルー」にも本当に魅了されました。この曲もクラシックとジャズの融合ですよね。そして、角野さんは、ガーシュインの軌跡を求めてアメリカに渡り、それをNHKが取材したわけですが、自分がシンパシーを感じるものへの角野さんのアプローチ、未知の世界への飛び込み方、そうしたものが素晴らしいと感じました。
自分の個性を信じて、色々なものをバランスさせていく。その姿勢が唯一無二だと思います。本当に、さまざまなジャンルの音楽をそれ自体受け入れて、彼なりの音楽観・世界観で新たなものを生み出していくのです。今、角野さんはニューヨークにも居を構えて色々な音楽を吸収しているようですが、その「進化・深化・神化」はものすごいものがあります。彼の演奏には、一種の宇宙観があるように思います。クラシックは基本的にはキリスト教を基盤としていて、父と子と精霊とその三位一体というのがベースなわけですけれど、角野さんは、そういうのを超えて、138億年の宇宙の歴史の中にあると、そんな気がします。動力波とか太陽とかブラックホールとか、そうしたことに角野さんは興味を持っているわけですが、そうした感覚が彼の音楽の中にあるような気がします。電波だとか、電磁波だとか、そういったものと共振する感覚といいますか。
「かてぃん」の名でYouTuberとしての活動もしていますけれど、生での演奏のエネルギーもすごいものです。この間は武道館で13000人の観客を熱狂の渦に巻き込みました。目の前で音楽が生まれ躍る、その瞬間瞬間を私は楽しみました。武道館でアコースティックなピアノをどう響かせるのか、そんなのは杞憂で、本当に素晴らしい音響でした。きっと相当な技術と工夫あってのことでしょう。
角野さんは、バッハやショパン、リストやラヴェルの生きた時代、彼らの音楽を生み出す姿勢にも大いにヒントを得て、今、この21世紀の時代にできることを考えようとしている人です。その音楽は、クラシックの域を超え、ワールドミュージックになっているように思います。角野さんの指はとても長くて、動きは滑らか。その紡ぎ出す音には高揚感があります。大空から舞い降りてきた、とそんな感じもします。三保の松原の生まれ育ちの女優の宮城嶋遥加さん(静岡舞台芸術センター俳優)の桜の木の下での朗読の時にも感じたのですが、そういった「舞い降りてくる」ものがあります。
―武道館のコンサートをご一緒した直後、ピアノのレッスンで、先生(佐藤祐子先生)から「角野隼斗効果が出てますね」と言っていただけた、という話をしましたら、藤田さんがメールに「銀河系からの宇宙船に乗って、角野隼斗さんの魂が先生の指に降りて来たかも?しれません。凄いSOULを貰えました。私はあの夜眠れず、興奮と余韻の時空で月曜日まで、飛行士になった気分でいました。」と書いてくださいましたね。(武道館でのコンサートは2024年7月14日 日曜日)確かに、あの武道館の舞台には「宇宙」というのを感じさせるものがありましたね。
感じたまま、そう書いたんですが。とにかく余韻に浸っていました。心を湧きたたせるクリエイター。音の劇のように五感を超えて感じる表現が膨らみ、静寂の中でこだまして取り囲まれる、指と指の動きが架け橋のように、渡って行こうと、誘われる躍動感「宇宙船」Universeに乗せて貰ってるような、音と音が溶けあって、心を揺さぶられていくんですね、魂に即興詩人の叙事詩的な旅先へと、それは、もう思考を格段上に促してくれるという感じですね。「芸術の魔術師」と称したいくらいです。角野さんは、友だちは東大時代くらいだけだそうです、時間がなくて、ピアノと音楽との一体感が強くて。そしてそれが彼にとってはwell-beingなんですね。超超党派と言いますか、全部を含んで感動を導いてくれる。そういう方だと思います。自分が面白いと思ったことに真っ直ぐに取り組んでいますよね。そして、観客に本当に楽しんでもらいたいと心から念じている方です。
角野隼斗武道館コンサートのパンフレットより
―角野さんの子供の頃のエピソードですが、ディズニーランドがすっかり気に入ったらしくて「大きくなったらディズニーランドになる」と言ったそうなんですね。人間という枠組みを超えた夢を語っているわけで面白いですよね。
もう一人、藤田真央さんのお話をしますね。この方は、2017年に18歳でクララ・ハスキル・ピアノ・コンクールで優勝されて、2019年にはチャイコフスキー・コンクールで2位。2022年からベルリンに居を移されて、世界各地で演奏活動をされています。彼の書いた『指先から旅をする』は、ピアニストとしての日々を描いていますが、本当に自分に与えられたアプローチを大切に、作曲家の声を求めて、その時代、その作曲家の気分というものを自分のものとして弾かれています。演奏には、本当に独特の吸引力があります。ご本人は童顔なんですけれど、本当に、その取り組み方が徹底しています。彼は舞台の際に、一般的なタキシードのようものは着ず、ゆったりとした黒い衣装を着用されるのですが、それは着心地に窮屈なところがあったら、作曲家の気分になって弾くことの妨げになるからのようです。また、彼は、指をかなり伸ばして寝かせた形で弾くために、「鍵盤を掃除しないように」なんて注意されたりもするそうなんですが、そういう独特の手の形も、ただただ望む音を鳴らすためなのですね。「音に妥協はしてはいけない」という思いがとても強いんですね。1940年代に活躍していたディヌ・リパッティ(33歳で早逝)を尊敬するなど、昔の時代のことを大切にしているピアニストですね。作曲家の技法を自分の感性に落とし込む、生きた時代の再生ということを鮮明になさっている方だと思います。
他に、浜松で聴いたピアニストにミハイル・プレトニョフがいますが、彼は作曲家でもあり、編曲もしていて、それが演奏にも表れています。魂の中で音楽が鳴っていると言いますか。彼は「音符の中で考える」そうです。
浜松は、浜松国際ピアノコンクールも開催されて、これもすごい権威を持ったコンクールになっていますね。ただ、コンクールは通過点ですから、その後、音楽家としてwell-beingをどうしていくか、という問題はあるでしょうね。
3月には、パトリシア・パニー先生のレクチャー・コンサートを聴きました。本当に作曲家の世界の中に入り込んで弾いておられるのが印象的でした。終演後、少しですが、フランス語で感想をお伝えすることができました。
私は、子育てがひと段落した頃(2000年)、フランス文学やフランス文化を学ぶために静岡大学に学士入学したのですが、1964年から1967年にかけて、NHKのラジオでフランス語講座を聴いてフランスに憧れていたんですね。フランソワ・モレシャンやジャック・マーニュが講師をされていた頃です。今もフランス語やフランス文化は私の生活の大切な部分を占めています(2022年、2023年と、シズオカ×カンヌウィークのフランス語スピーチコンテストに出場しました)し、ピアノや吹奏楽(静大吹奏楽部)に耳を傾けるのも大切なひとときなんです。
―藤田さんが静岡大学に在学されていた頃は、ピアノのお話などは一度もしたことがなかったように思いますが、卒業されて20年も経って、一緒にピアノのお話ができるとはとても不思議ですけれど、本当に嬉しく思っています。また、今回、角野隼斗や藤田真央に藤田さんが夢中になられるまでの長い前史があることを伺って、感銘を受けました。この度はインタビューにお答えくださって、本当にありがとうございました。
(聞き手・安永愛)