インタビュー「ピアノとわたし」(9)

ダリウス・グレニジ先生

プロフィール

ダリウス・グレニジの画像

静岡大学グローバル共創科学部 教授
国際地域共生学コースで英米文学・科学と技術・芸術を教える。専門は地質学。

インタビュー

―先生は、ニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ちでいらっしゃいますね。まずピアノとの出会いからお伺いしたいと思います。

1歳か、2歳頃でしょうか。覚えていないんですが、父が家でジャズピアノを弾いていたのはなんとなく覚えています。父は、仕事のストレスをピアノを弾くことで癒しているという感じだったのではないかと思います。あまり低音部は弾かなかったけれど、なかなか洒落た音楽でした。

―お父様は、ピアノを習われていたんでしょうか?

それはきちんと尋ねたことがないのですが、父はマンハッタンの生まれ育ちで、父方の祖母はあまり家にいなくて、コットン・クラブで暴れ回っていました(笑)。ですから、ジャズ関係、音楽関係の人が身近にいて、そういう人に教えてもらったりしていたのではないかと推測しています。(グレニジ先生後日談:「インタビュー後、健在である母に聞いてみたら、私と姉が生まれた時初めて暮らしていたアパートの家主の叔母さんがピアノの先生で、父に教えていたそうでした!」)。

私が子供だった頃、ニューヨークの周りの人たちは、多くが何かしら楽器をやっていました。トランペットを吹いたり、ピアノを弾いたり、ドラムを叩いたり・・・。子供達も大人と同じ場面で楽器を弾いていました。私の子供の頃、周りにこんな子がいたな、と思う映像をYouTubeで拾ったのでお見せしますよ。
(古いモノクロのYouTubeの画像をお見せくださる・・・YouTube「6才のブギウギピアノ王Sugar Chil Robinson」
シュガー・チル・ロビンソンについては、こちらを参照

―6歳と書いてありますけれども、スイング感がすごいですね。体は小さいけれど拳や肘まで使って鍵盤を叩いていて本当にパワフルですね。こうでしかあり得ない、っていう頑固さまで感じさせるくらい堂々たる演奏ですね。先生もピアノを習ってみようとは思われなかったですか?

うーん、それはね・・・。音楽の世界かスポーツの世界が唯一輝いていたようなそういう差別時代のアメリカで、父は、歯科医師を目指していたのですが、うまくいかず(当時の大学の中にでも、米国の固い人種差別態勢により絶望感に襲われた話はありますが)、その道を諦めました。子供達には、しっかりとした勉強をして教養を身につけて仕事について欲しいという思いが強かったようです。それは母も同じ思いでした。母はケンタッキーの田舎の出身ですが都会に憧れて16歳でニューヨークにやってきて、国連で人を案内するようなアルバイトをやっていたらしい。どうも母が接した日本人女性のことを聞いていると『お嬢さん放浪記』を書いた犬養道子さんといろんなことが合致していて、犬養道子さんと母は接していたのではないかと思うんです。父と母はニューヨークで出会ったわけだけど、父が南部の子を選んだのは料理が上手かったから!

グレニジ先生の専門は地質学。岩石標本を手に取った写真

グレニジ先生の専門は地質学。岩石標本を手に

私の育った家庭では、何より勉強や教養というものを大切にしていました。6人兄弟でしたが、子供がそうしたことに気持ちを集中できるように、余計なものには触れさせない、という配慮があったようです。ディズニーの漫画や映画さえ触れさせようとしませんでした。というのもディズニーというのは、戦中にはプロパガンダ発信に手を染めていたわけでしょう。私の子供の頃も差別的な固定観念を広めていたわけです。両親は、そうしたディズニーに懐疑的で、ディズニー作品を子供に与えるのは適切でないと考えたのでしょう。私の子供時代は1960年代。公民権運動の時代のアメリカです。母が初めて涙を流したことを覚えています。それはケネディが暗殺された時でした。

家に百科事典は揃っていて、私の姉などは、年端も行かないうちからアメリカの歴代大統領の詳細を誦じているような子供でした。私の育った家庭では勉強ができる、ということが大切にされていたんですね。姉がすごかったのですが、私も勉強はできる方でした。

今考えると、家にピアノがあったので、「習いたい」と言っても良かったのですが、私は控え目な子供でしたし、親から「習ってみる?」と言ってもらえるのを待っていた気がするのですが、そういう時は来なかったのです。父親がピアノを好んで弾いていたのに、少しそこは不思議にも思うのですが。私の中には、ずっとピアノに対する憧れはあったんです。父親には、ピアノのことを高校時代にちょっと尋ねてみたことがあります。そしたら、Lionel Hampton というジャズ名人と一緒に弾いたことがあるという武勇伝をしてくれたのですが、本当かな、思っていました。ところが、上記のサイトの天才少年も、Lionel Hampton と一緒に弾いて、舞台にまで一緒に出ていた、という文献を見つけました!・・・お陰様で!もしかしたら、父の話もおとぎ話ではなかったかもしれません。

次にピアノと出会うのは、大学院生の頃、初恋の人との思い出と重なります。趣味でピアノを弾く人だったのですが、ピアノが欲しいということで、あるときガレージセールで見つけてブライトン(Brighton)という会社のアップライトピアノでしたが、いい音だなあと思いまして200ドルくらいで手に入れました。そして、調律師を頼むわけですが、くじでも引くみたいに、電話帳の上でこれ、と指さしてみて、指先にあった番号に連絡を取りました。ペンシルバニア州ピッツバーグという街の方でした。

調律師は盲目の方でした。その方のお姉さんが付き添ってこられました。盲目の方と知らずに依頼していたのです。調律師は、盲人の方の杖、なんと言いますか「白杖」ですか、それを持っていらっしゃいました。でもその方が家に着くと、部屋のピアノがどこにあるのか、まるで察知したかのように、そのまますいすいとピアノに歩み寄っていかれました。そして、しばらく左手をピアノの上に、右手を鍵盤の蓋に置いて、じっと静かにしているのです。お姉さんがにこっと笑うだけです。ただただ静かにしていた時間が20分くらいだったでしょうか、1時間にも感じられたのですが。それで全てがわかったのか、どういうことなのかわかりませんが、その後、調律師はピアノの蓋を外し、鍵盤ごと外して、全ての作業を行ってくれました。調律師は「いいピアノですよ」と言ってくれましたが、確かにそのピアノは調律の後、大変綺麗な音になり、1年間はずっと美しい音を保ってくれました。後にも先にもそんなことは見たことはないです。

大学院生時代のグレニジ先生とお姉様。ガレージセールで入手したブライトンのピアノを背景に

大学院生時代のグレニジ先生とお姉様
ガレージセールで入手したブライトンのピアノを背景に

その後なのですが、初恋の彼女は、大学院生であった私に、カネが欲しいから大学を辞めて職に就いて欲しい、と言ってきました。でもそれは受け入れることができませんでした。学ぶことが大切だと思っていましたから、そこは譲れませんでした。そして別れることになり、彼女が家を出て行きました。それで、ピアノが残って、それを弾くのは自分だけ。で、せっかくピアノが家にあるのですから、習ってみたいと思い、大学でピアノの授業を取りました。講座の先生は、中国本土出身の方で、20人くらいの受講生がいましたが、なぜか、とても私に親切でした。それで楽譜は読めるようになって、色々家に帰っても弾いてみるようになりました。

―音楽専攻ではない大学で、教養科目としてそのような科目が開講されているのですね。

そうです。音楽に関連して、様々な科目が開講されていました。

―それは、日本の大学には見られないですね。リベラルアーツとしてそうした演奏を学ぶ科目があるというのは、アメリカの大学の良い面ですね。

そうですか、日本の大学には無いですか。

大学でのレッスンから1年後、家でパーティーをするから、そこでピアノの上手い人に弾いてもらおうと思って、調律をお願いしようとしたのですが、その調律師の予約が立て込んでいて都合がつかず、パーティーに間に合わせるために別の調律師に頼みましたら、どうも作業が雑でした。その時は3ヶ月くらいで音に狂いが生じてしまいました。

「ご自分の書と共に」撮影された写真

ご自分の書と共に

そのパーティーで上手な方がピアノを弾くのを、じっと見ている方がいました。その瞳を見ていると、ピアノがものすごく好きなことがよくわかりました。それで、私は、ほとんど大学にいて家にいませんでしたから、彼女のお願いに応じて、合鍵を渡して、ピアノを思う存分に弾きまくれるようにしました。その頃、しばらく日本に研究派遣されることになり、締め切った部屋にピアノを置いておくのは、あまり良くないなあと思っていたところ、「自分の家にピアノを移動して弾かせてもらいたい、帰国したら自分の費用で返すから」とその方が言うので、はいはいと聞いていました。ところが、半年後日本から帰国しましたが、彼女と連絡がつかなくなってしまいました。彼女自身が引っ越されていて、どこに引っ越されたのか見当もつきませんでした。同じ大学の学生だということはわかっていたので、大学を通してようやく彼女と連絡がつきましたが、「ピアノは返しません」と言うではないですか。それは話が違う、ということで、弁護士を通して、裁判にかけますよ、との脅しによって、ようやく彼女はピアノの置き場所を明かしてくれました。その場所から私の友人とピアノを運び出しました。私自身の日本への研究活動は更に延びて行くのを予想していたので、そのピアノは、ピアノ好きな子供達のいる、その友人のところに貰われていきました。それから、ピアノは私の元に返っていませんが、あの子供たちが楽しんでくれるなら、それでいいと思っています。

―先生はどんなピアノ曲がお好きですか?

ピアノの曲では、特にラヴェルやドビュッシーの曲が好きです。ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」という曲が特に。それから、私は民族音楽が好きで、ピアノに関しても、ケルト系の音楽、アイルランドの方の弾くピアノが好きです。なぜかその音楽が馴染むんです。私の一番のお気に入りのケルト系ピアノはジェーン・カンピオン監督の映画「ピアノ・レッスン」で流れるピアノ曲です。

アメリカは実にたくさんのラジオ曲があって、民族音楽をずっと流している局、ずっとクラシックを流している曲、少し懐かしいポップスを流している局など、選択肢がたくさんあります。日本のラジオ局の数は少なくて、クラシックを聴こうと思っても、局が限られているし、クラシック音楽を流している時間帯は限られているでしょう?あまり多様にならないように、できるだけ皆が同じような音楽を聴くように仕向けているのかとさえ思います。

―インターネットによって、今は音楽を聴くにも多様な選択肢が出ていますよね。

それは、変わってきましたね。若い人たちの聴く音楽は、実に様々です。アメリカにいた頃、民族音楽を聴く中で、日本の民謡も耳に馴染んできました。「ちゃっきり節」はよく覚えていたのですが、静岡に来た時、あれ、「ちゃっきり節」というのは静岡の歌ではないかと気づき、まさにそうでした。民謡をピアノで弾いたものも好きなのですが、どこかラヴェルの曲に似ている気がします(YouTube:ちゃっきり節)。

その次のピアノとの出会いといえば、2014年に静岡大学の大学会館で上演した「イノック・アーデン」の朗読音楽劇の時でした。

―イギリスの詩人テニスンの物語詩にリヒャルト・シュトラウスがピアノで音楽をつけたものですね。

「詩と音楽の出会い 関治子と静大生によるピアノと朗読の夕べ」のチラシ表裏

「詩と音楽の出会い 関治子と静大生によるピアノと朗読の夕べ」のチラシ表裏

プロのピアニストが静大に来られることになり、ピアノと合わせて学生たちと担当部分を決めて朗読をすることになって、初めての練習を静大の共通B棟(階段教室)のピアノを囲んでやりました。その時、ピアノの音がその講義室全体に響き渡って、ピアノに合わせて朗読するのはとても印象深い経験でした。本番はプロの方がピアノを弾いてくださって、それはもちろん素晴らしかったけれど、ピアニストがいらっしゃる前に練習ピアニストを務めた安永先生のピアノからも情熱が伝わってきて、こちらは最初の強い印象で、もの凄く気合が入りました。

―グレニジ先生が朗読された箇所は、テニスンの物語詩のクライマックスで、舞台の照明は赤になり、舞台後ろの幕が揺れている、という演出でしたよね。ピアノのパートも大変激しくなっている箇所でした。先生の朗読も音楽と相まってものすごい迫力でした。

その後、私はそのようにピアノを弾ける人と出逢えればいいな、とそう感じていていました。鮨屋で出会った女性と結婚することになりました。ピアノを弾ける人だといいな、と密かに思っていたのですが、なんと、結婚後に初めて聞いたのですが、4歳から鍛えられて、ピアノが上手な人だとわかりました。歯科衛生士をしている人なのですが、不思議とピアノについて聞き出す気にはならなかったんです・・・。

―今日は、ピアノをテーマに、先生の人生を振り返っていただいた感じですね。いいお話をありがとうございました。

(聞き手・安永愛)