インタビュー「ピアノとわたし」(16)

吾妻壮先生

プロフィール

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上智大学総合人間科学部心理学科教授。精神分析家・精神科医。

インタビュー

―先日(2023年8月19日)、上野の旧奏楽堂での「ぴあの好きの集い」の演奏会で、吾妻先生の演奏を久しぶりに聴かせていただきました。メンデルスゾーンの『無言歌集』より「エレジー」、そしてショパンの「幻想曲」の2曲。細やかな感情の襞に入り込んでいくロマン派の王道を行く演奏でした。学部学生の頃から、ピアノに正統的な取り組みをされている方だとの印象がありましたが、ブレずにその道を進まれ、さらに深化していると感じました。

ありがとうございます。わりと曲の好みというのは、昔からそう変わらないもののようですね。

―先生は、理系からドイツ文学科に転科されて、またその後、大阪大学医学部に学士入学、その後、精神科医のキャリアを積まれてきたのですね。進路が定まるまでが、かなりダイナミックですね。

そうですね。最初は、漠然と理系の学問に憧れて理学部を選びました。今思うと、これは学問そのものに関心があったからというよリも、単に憧れからだったと思います。実際、理系の学問を突き詰めてやっていけるかというと、そこは疑問に感じたんですね。もともと文学や思想に興味があって、文系の学問をしたい思いもあり、ドイツ文学科に転じました。

―あの頃のドイツ文学科には、有名な先生が揃っていましたね。

ゲーテ研究の柴田翔先生や、ベンヤミン研究の浅井健二郎先生、カフカ研究の池内紀先生がいらっしゃいました。文学や思想・哲学は面白かったけれど、それを「研究」としてやっていくというのは、やはり難しいと感じました。わざわざ文転してきた割に、あんまり勉強しないな、と先生方にも思われたんじゃないかと思います(笑)。「研究」というスタイルに限界を感じる中で、外の世界、他者と関わりながら何かやる、というのが良いのではないか、と思うようになりました。高校時代から医学部というのも良いな、と思っていたんです。ドイツ文学科の4年次に上がった時、柴田翔先生に卒業後について聞かれて「阪大医学部に学士入学して、精神科医になりたい」と伝えました。そうしたら「今は編入試験に集中しなさい。卒論はその後で良い」と言ってもらいました。それで、編入試験の準備を必死でやりました。

―そうでしたか。さすがにその編入試験直前期はピアノをセーブされていましたかね。

そうですね。

―ドイツ文学科の卒論のテーマは?

ヘルダーリンです。

―狂気に陥っていった詩人ですね。精神医学とも繋がるものも感じます。なるほど、そういう風に進路に関して試行錯誤なさる中でも、ピアノの趣味は一貫していらっしゃったのですね。本当に揺らがずに。ピアノはいつ頃始められたのですか?

ピアノは小1で始めましたが、その前に、5歳くらいから幼稚園のオルガン教室に通っていました。ピアノはバイエルの下巻から入ったと思います。それからソルフェージュと聴音のレッスンももう1日別に通っていました。

―熱心に練習されていたのですか?

そうでもないですね。外で遊ぶ方が楽しかったので、面倒だな、と思うこともあったくらいです。それが、小学5年生の時に、フィリップ・アントルモンのショパンのレコードを聴いて気に入りまして、「子犬のワルツ」とか「別れのワルツ」とか「華麗なる大円舞曲」など、自分でも弾くようになりました。ルービンシュタインのレコードもよく聴きました。ショパンのワルツに加えてバラードやポロネーズ、ベートーヴェンの「悲愴」だとか「熱情」だとか、そういった名曲を弾くようになってきました。中1の頃、ショパンの「バラード1番」を弾いていました。中3で、グールドの「フランス組曲」を聴いてバッハに目覚め、グールドなら「ゴールドベルク変奏曲」がいいよ、と聞いて、さらに色々聴くようになりました。高校に入ってから聴いたラザール・ベルマンの弾くリストの『超絶技巧練習曲集』も衝撃的でした。シフラやカツァリスの弾くリストの「メフィストワルツ」もよく聴いていました。

―中学受験はされなかったのですね。

はい、高校は仙台の公立高校に通いました。そこで、ピアノ好きの先輩に出会って、音楽の知識が広がっていきました。また高校の先輩には他に、後に桐朋に進みピアニストになる先輩がおられて、スクリャービンの「神秘和音」についても話していたことを覚えています。初めて聞く話でしたし、またその先輩のピアノは別格だと感じました。

―先生は、ピアノの道に進もうと考えられたことはないですか?

それはないですね。そういう別格級の人を高校時代に見てしまいましたので、全くそういう考えはなかったですね。高校の2年先輩に東大ピアノの会に入って会長を務めておられた先輩がいらっしゃり、高校時代からピアノの上手な先輩として有名でした。東大に入れたら、東大ピアノの会に入ろうと思っていました。

―新入生の頃には、すでに本格派の風格でしたね。ピアノはどうされていたのですか?

電子ピアノを置いていました。それから、ピアノのレッスンも受けていました。

―吾妻さんの演奏が正統的だというのは、きちんと指導を受けていらっしゃったということも大きいかも知れないですね。選曲もまさにピアノ音楽の王道と言って良いものでした。

東大時代にはベートーヴェンの「ソナタ」を何曲か、ショパンの「スケルツォ2番」、「バラード1番」、「バラード2番」「バラード4番」、「エチュード」を何曲か、「ポロネーズ5番」、「ポロネーズ6番」、リストの「メフィストワルツ」、「ハンガリー狂詩曲12番」、「BACHの 名による幻想曲とフーガ」、「ピアノ・ソナタ」「『ドン・ジョヴァンニ』の回想」、ラヴェルの組曲『夜のガスパール』などを弾いたのを覚えています。ラフマニノフの「ピアノ協奏曲2番」、リストの「ピアノ協奏曲1番」も2台ピアノで弾きました。

―大阪大学に学士入学されてから、ピアノはどうされていたのですか?

大阪大学にはピアノを弾く集まりがあったんです。それで早速参加して演奏会を一緒に開きました。名前は「大阪大学ピアノの会」でいいのでは、と提案しまして、その通りになりました。大阪大学に学士入学して2ヶ月後には、演奏会でピアノを弾いていました(笑)。大阪大学には「医学部合奏団」というのもあって、アンサンブルを楽しむこともできました。

―医師国家免許を取られた後、渡米されて9年をニューヨークで過ごされたのですね。精神科医というのは、患者さんとの言葉のやり取りが中心でしょうから、英語のハードルは相当に高いのではないかと思うのですが。

はい、それは高かったです。精神分析の分野では、アメリカがずっと進んでいましたから、アメリカで学び、精神科医としてしっかりとした訓練を受け、その上で精神分析の訓練を受けようと考えました。英語の読み書きは割と得意でしたが、話す方は、力が足りませんでした。それで渡米する前に、沖縄の米海軍病院でインターンをしました。そこのチャペルに小さなピアノがあって、そこで弾かせてもらったりしました。やはり祈りの場ですから雰囲気が違います。そこで弾く時は、静かな曲を弾いていました。米兵やその家族の診察をする中で、英語での診療に慣れていき、その後、大阪の病院で研修したのち、渡米、ニューヨークのアルバート・アインシュタイン医科大学精神科でレジデンシープログラムという研修プログラムに参加しました。

―そうだったのですか。まず、沖縄の米軍病院でのインターンという選択はかなり思い切ったものだと感じますが。

少数派の選択ではありますが、アメリカ留学を目指す方は、そうした選択をします。他に横須賀の米海軍病院を選ばれる方もいました。

ニューヨークでは、医学の勉強と並行して、ジュリアード音楽院のEvening Divisionに通いました。そこの集団レッスンが特徴的で、演奏して、その後皆でディスカッションするというようなクラスでした。そのクラスに通うと、ジュリアード音楽院の練習室が使用できるんです。大体は古いスタインウェイのグランドピアノで、状態の良いピアノは音楽専門の学生たちで、使用ローテーションが組まれていたようでしたが。

―先生は、ニューヨーク国際アマチュアピアノコンクールで優勝されていますね。ニューヨークに行かれて何年目ですか?

2000年に渡米して、2004年に最初のコンクールで3位となり、翌年優勝しました。本選になると周りはジュリアード音楽院卒の方をはじめ音大卒の方が多く、大変でしたが、幸運でした。

―医学の勉強や診療で忙しい中、ピアノにも本格的に取り組まれたのですね。コンクールとなると相当にレパートリーを準備しなくてはならないでしょう?

そうですね。コンクールは、第1次、第2次、第3次とあり、30分くらいのレパートリーです。リストの「ため息」、ショパンの「バラード3番」「バラード4番」、バッハの「パルティータ2番」、ドビュッシーの「花火」、スクリャービンの「練習曲Op.8-12」などを弾きました。

―それだけのレパートリーをアマチュアピアニストとして揃えるのは並大抵なことではないですね。コンクールに出場してみようと思われたきっかけは?

このアマチュアコンクールの本選を聴きに行ってみたんですが、このコンクールに付随してマスタークラスが開催されていて、受講してみたら、先生に「何でここにいるんだ。何でコンクールに出場しないのか」と言われまして。それなら出てみようかと。

―その頃は、お子さんも小さかったでしょうし、そのエネルギーには脱帽です。

家族にはあまり評判は良くありませんでしたが(笑)

―アメリカは9年いらっしゃって、ずっとそちらで生活されることも考えられたんですか?

それも少し考えましたが、日本の方が何かとやりやすいですし。2009年に帰国しました。単科の精神病院と大阪大学精神医学教室に勤務した後、神戸女子学院大学に教授として赴任しました。大学にピアノがあって、そこで弾くこともありました。その後2019年から上智大学で教鞭を執っています。

コンサートでの吾妻先生と吾妻先生スナップ写真

(左)コンサートでの吾妻先生 (右)吾妻先生スナップ写真

―YouTubeに、先生の演奏がアップされていました。「バラード4番」「スケルツォ2番」「即興曲3番」「別れの曲」とショパンの作品が並んでいます。見事な演奏です。

その動画は2013年に大阪大学の講堂で演奏した時のものです。パリ国際アマチュアピアノコンクールで優勝した村上将規さんとのデュオコンサートです。

振り返ると、学生の頃は、駆り立てられるようにしてピアノを弾いていましたが、その頃はなぜこんなに駆り立てられているのか、十分に理解していなかったように思います。音楽というのは言葉にならない強力な何かを表しているんですね。演奏というのは身体を基盤とした極めて情緒的な経験です。そうしたものを自分はどうしても必要としている、だからピアノを弾いているんだ、ということが分かってきたのは、精神医学と精神分析の訓練を受けるようになった頃くらいでしょうか。ピアノの演奏においては、作曲家の言葉にならない思いを受け止め、それを表現するわけです。自分で表現したと思っても、それが聴衆に伝わるかどうかというのはまた別で、それが演奏の難しいところですけれども、少なくとも私は、作曲家の思いを受け止めるということはできるようでありたいという強い思いがあります。診療でも、患者が何かアートに触れているのだったら、どんな作品が好きなのか、どんなものに興味を持っているのか、と「どんな」ということを訊ねます。そういうことが患者の心を理解する手掛かりになります。

―今、先生は上智大学心理学科で精神医学を教えていらっしゃいますが、このポストは、加賀乙彦さんのいらっしゃったポストですね。加賀乙彦さんは精神医学と文学、吾妻先生は医学と音楽を兼ねられているわけですね。

他にも日本を代表する精神分析家の藤山直樹先生が歴任されていますが、藤山先生は「落語」をもう一つの領域として持っていらっしゃいました。

―精神医学とピアノ音楽という分野でのご研究も発展性がありそうな気が致します。ネットで先生の論文のタイトルを拝見しましたが、本当にたくさんのお仕事をなさっていますね。

いつのまにかたくさんの論文を書いていた感じです。

―今も、ピアノのレッスンは受けられているのですか?

はい、人前で弾く機会がある時には、聴いていただき、指導していただくようにしています。毎回、大きなことから細かなことまで、沢山ご指摘いただいています。

―今後、ピアノについては、どのようなことを予定されていますか?

東大ピアノの会時代の友人や先輩が主催する演奏会に出演させていただいています。このインタビューシリーズでも登場している東大ピアノの会の先輩の佐久間哲哉さんが2年に1回主催されるPiano Perspectivesにも出演していまして、次は「半音階」がテーマとなっています。ショパンの「ピアノ・ソナタ2番」、メトネルの『おとぎ話』の中の「カンパネラ」や「リア王」が引かれているOp.35―4などが候補です。メトネルは地味なんですが、ショパンとはまた違ったロマンティシズムがあります。他に、レッスンしていただいている先生の発表会もあります。

―年に数回は本番があるという感じなのですね。精神医学の研究・教育とピアノとが、先生の生活の中で良いバランスのようにお見受けいたします。吾妻先生の弛まぬ努力あってこそでしょうけれども、努力と言ったのでは足りない、人生へのパッションとでも言うか、そうしたものを吾妻先生のお話から感じ取ることができました。お話を聞かせてくださいまして、誠にありがとうございました。

(聞き手・安永愛)