野平一郎のバッハ:平均律クラヴィーア曲集 ~ピアノ、チェンバロ、ポジティフ・オルガンによる~

*2025年1月11日、静岡音楽館AOIでの上記リサイタルについて、当研究所の小田透先生にご寄稿いただきました。

コンサートのチラシ

コンサートのチラシ,チラシは静岡音楽会館AOIより引用

野平一郎のバッハに派手なところはなく、何の変哲もない演奏であるかのように聞こえてしまうかもしれない。しかし、ひとつひとつの音を丁寧に弾く彼の演奏に注意深く耳を傾けていると、そこに美しい流れと響きがあることに気がつくだろう。テンポは中庸。特定のパートを強調することもなければ、対位法的な絡み合いを神経質に作り上げることもない。フレージングはややスタッカート気味。低音も中音域も立ち上がりがクリアで、メロディーラインがくっきりと浮かび上がる。過剰に歌い込むことはないが、旋律の頂点付近にはわずかなタメが入る。その呼吸がフーガの各パートで、律義に、しかし機械的ではないかたちで、大切に繰り返される。そうすることで、奏者の解釈というよりも、バッハの音楽それ自体に隠されていたものが浮かび上がってくる。そのような秘められた豊穣な可能性を、野平の演奏は真摯に実現させていく。

「野平一郎のバッハ:平均律クラヴィーア曲集 ~ピアノ、チェンバロ、ポジティフ・オルガンによる~」と題されたこの演奏会は、バッハと同時代の楽器でバッハを弾くという試みではあるものの、野平が語るところによれば、歴史的に「オーセンティック」な演奏を目指しているわけではないという。しかし、現代ピアノでバッハを弾くからといって、バッハを現代化しようというつもりでもなかった。バッハは生涯に二度、ピアノという楽器に言及していたという。一度目は否定的に、二度目は肯定的に。現代ピアノによる野平のバッハは、言ってみれば、「もしバッハがもっと早くにピアノを知っていたら」という<if >的な演奏だったのであり、それは、〈ありえたかもしれない(しかし実際には起こらなかった)〉可能性の探究であった。

楽器のそばにはマイクが置かれており、折に触れてMCが差し挟まれる。コンサートとレクチャーの中間のような形態。ただし、野平が語るのはバッハ本人のことであり、自身のバッハ解釈についてではない。だから聴衆は、彼がどのように楽器を使い分けているのかと自問するほかない。どうやら運動性の高い曲はチェンバロに、旋律線の音色が物を言う曲はオルガンに、響きの移行が前景化されうる曲はピアノに割り振っていたようだが、何らかの原理に従ったというよりは、作曲家・演奏家としての直感による部分がすくなからずあったのかもしれない。

ピアノとポジティフ・オルガンとチェンバロはみな鍵盤楽器に分類されるとはいえ、出てくる音はまったく違う。ひとつひとつに音に細かなニュアンスをつけ、音量を細かくコントロールできるピアノに比べると、チェンバロの音は一律であり、音色レベルでの奏者の自由度はかなり低いようだ。オルガンは音域自体に独自色がある。

響きはまったく違うし、楽器と空間の関係も必然的に大きく異なる。オルガンの響きは空間を満たしていく。というよりも、オルガンの響きが空間そのものとなる。オルガンの音はわたしたちを包みこむ。チェンバロは周囲の空気をひそやかに震わせる。だからわたしたちは耳を注意深く傾ける。現代ピアノは空間をキャンバスとしてそこに色を乗せていくかのようである。現代ピアノはその鮮烈な色合いで否応なくわたしたちの耳を引きつける。

キータッチが大きく異なるであろう3種の楽器を弾き分けるのは、技術的に困難なことなのだろう。ピアノのキーの重さに較べれば、オルガンやチェンバロのタッチは羽毛のようなものなのかもしれない。チェンバロやオルガンではそれなりにミスタッチがあったように聞こえた。

しかし、このように弾き分けられたからこそ、はっきりと分かったこともある。どの楽器で演奏されようと、バッハの音楽の普遍性はまったく瘦せ細ることがない。バッハの音楽は楽器固有の音に左右されない。それはバッハの偉大さの証明であると同時に、そのようにバッハの音楽を現前化させることができる野平一郎という音楽家の偉大さの証明でもあった。

野平のバッハでは経過句的な半音階の移行が埋没しない。ひとつひとつの音を慈しむように確かめる彼の演奏では、バッハの平均律が隠し持っている後期ロマン派や印象派的な和音が瞬間的に現前し、そして、ひそやかに消えていく。バッハの超時代性は確かに表出するが、それはあくまで一時のことである。バッハの異端的な契機を遡及的に強調するのではなく、バッハを時代的な文脈に据えながら、時代性に収まりきらない可能性とも真正面から向き合い、そのすべてと分け隔てなく対峙すること——野平のバッハ演奏の中核をなしていたのは、そのような批判的な平等性の精神であったように思われる。

(寄稿・小田 透)