アレクサンドル・カントロフ ピアノ・リサイタル(横浜みなとみらいホール)

残暑と言って良いような暑さの残る10月6日(金)、横浜みなとみらい大ホールでのアレクサンドル・カントロフ ピアノ・リサイタルを聴きました。本公演は「みなとみらいアフタヌーンコンサート」の一つで、開演は午後1時半。座席数2000ほどのこの大ホールで平日の昼間のリサイタル開催というのは、よほどの人気・実力を認められたアーティストでなければ成り立たないでしょう。チケットの予約に出遅れてしまった私は、ピアニストの手の動きのよく見える席を確保することができませんでした。その段階で、この26歳の若きピアニストの人気のほどを知ったのですが、実際、平日昼間の大ホールが埋まっているのを目にして、クラシックのピアノ音楽への関心の高さ、こういう時間帯に実際に聴きに来られる(平日昼間に時間を空けられ、リサイタルのチケットを買える)恵まれた人たちの層の厚さを実感しました(たまたま自分は金曜日に授業担当がなかったために来場できたわけです)。

開演前の横浜みなとみらい大ホール

開演前の横浜みなとみらい大ホール

私は、ヴァイオリニストである父親ジャン=ジャック・カントロフの名の方には馴染んでいましたが、息子アレクサンドルの演奏には触れたことがありませんでした。現在、日本で絶大な人気を誇る若きピアニスト藤田真央が2019年のチャイコフスキー国際コンクールで2位を受賞した際、1位を受賞したのがアレクサンドル・カントロフであったということだけは知っていましたが、どのようなタイプのピアニストか、ということについては、知らないままでチケットを予約したのでした。

リサイタルのチラシ

リサイタルのチラシ(画像引用:神奈川芸術協会)

予定されていたプログラムはブラームスのピアノ・ソナタ1番、シューベルトの「さすらい人」幻想曲をメインとしたものでした。このメインの2曲は、どちらかといえば私の苦手な曲でした。いずれも楽曲に過剰なところがあり、聴いていてどうしても疲れを感じてしまうからです。抵抗感さえ覚えてしまうプログラムでもチケットを予約したのは、もちろん、この未聴のピアニストへの興味からでした。そして、このリサイタルで、私は、ひとときたりとも疲れたり、飽きたり、ということがありませんでした。そのことに自分でも驚きました。それはなぜかー。

アレクサンドル・カントロフのピアニズムは、決して甘美なものであったり、超絶技巧を誇ったりするものではありません。揺らぎないピアニストとしての技量があることは当然の前提なのですが、アレクサンドル・カントロフには、創造者としての作曲者の内面への想像力と、その世界観への共振が見られるように感じられたのです。

「カントロフのピアノリサイタルに行ってきたよ」と夫に話すと、「ああ、あの高校生がぼっと突っ立ってるような奴ね」との言葉が返ってきました。夫もカントロフの演奏を碌に聴いてはいないのですが、ネットサーフィンやらCDのジャケットやらでアレクサンドル・カントロフを目にしていたのでしょう。でも、夫の一言は、カントロフの人となり、アーティストとしてのあり方を結構的確に言い当ててもいるのです。というのも、カントロフは、未だアイデンティティ希求の途上にある人のようでもあり、16歳頃から父親と共演する機会があり、音楽家としてキャリアを積んできたものの、ショービジネス的なところからは冷静に距離を置いていて、聴衆に対する作り笑いのようなものが一切ないのです。

現在、若い世代の注目されるピアニストにダニール・トリュフォノフがおり、今年2月にサントリー・ホールにてリサイタルを聴く機会がありましたが、激しさと繊細さとの間の振幅が大きく、全てにおいて磨き上げられ、ひとときも耳をとらえて離さない演奏であるものの、何か中庸の表現がないようにも感じられました。隅々まで驚異的で唯一無二の個性を打ち出そうというのか、そのような野心の感じられる演奏だったのです。アレクサンドル・カントロフの演奏は、トリュフォノフとは対照的に感じられました。カントロフの場合は、自分の個性を打ち出そうという野心ではなく、作曲家の開いた作品世界の大きさに向かい合おうとする情熱が優っているようなのです。

プログラムのメインに据えられていたブラームスのピアノ・ソナタ1番は、若きブラームスの心象を映し出すものですし、シューベルトの「さすらい人」幻想曲は、まさにビルドゥングス・ロマンの主人公のようなアイデンティティを求める発展途上の若者のテーマに根ざしています。26歳のカントロフが、その若さ故に切に取り組めるテーマであるとも言えます。私は、ピアニズム云々の前に、そうした自らの現在を作曲家の実存に響き合わせるようにして音を紡いでいくカントロフの想像力、音楽世界への拓けに魅了されたのでした。音楽的には繰り返しも多く、過剰なところもあり、決して聴きやすいはずはないのに、そうしたカントロフのドラマに引き込まれ、苦手な曲をも一切退屈せずに聴き通したのでした。

上記二曲に挟まれる形で、カントロフは、ブラームスによる左手だけのバッハ「シャコンヌ」の編曲と、リストによるシューベルトの歌曲の編曲(さすらい人、水車小屋と小川、春への想い、街・海辺で)を弾きました。この編曲の演奏においては、カントロフがピアノという楽器に見出し、思い描いている可能性が、極限的な形で現れていたように思いました。ちなみに、バッハ「シャコンヌ」はブゾーニ編曲の両手バージョンで弾かれることが圧倒的に多いですが、カントロフは、ヴァイオリン独奏により近いブラームスの左手編曲を好ましく思ったのでしょう。数年前、私はこのブラームスの編曲を舘野泉の演奏で聴いて気に入り、翌日譜読みは割合順調に進んだものの、あまりに手への負荷が高く、練習し続けるのは危険だと直感して練習をやめました。ブラームスの編曲は左手だけのため、ブゾーニ編曲版より素朴になりますが、ピアニストにとってより一層チャレンジングな曲と言えます。シューベルト歌曲のリスト編曲では、人の声ほどには歌えないピアノという楽器で、どこまで歌えるか、それが目指されています。カントロフはその課題を大切にしているのでしょう。

アンコールは、リストの「ペトラルカのソネット104番」とストラヴィンスキー『火の鳥』終曲のアゴスティ編曲の2曲でした。甘美でもあり、くつろいだ雰囲気の「ペトラルカのソネット104番」でリサイタルの高揚を鎮め、最後の「火の鳥」は祝祭的に。見事なリサイタルの締め括りでした。

カントロフは、照れたように、放心したように、ぼっと舞台に立っていました。

「高校生みたいにぼっと突っ立ってる奴」―そんなピアニストが世界を舞台に活躍しているのは、とても喜ばしいことではないでしょうか。私は、何か温かなものに満たされ、ホールを後にしました。

(文・安永 愛)