アレクサンドル・カントロフ ピアノ・リサイタル(静岡音楽館AOI)

ピアノは弦楽器とは違うが、まったく異なるわけでもない。ピアノはハンマーによって弦を叩くことで音が出る構造になっているから、出た音は必然的に減衰する。一度出した音を急激にクレッシェンドさせたりデクレッシェンドさせたりすることはできない。単音のニュアンスを変化させることも容易ではない。しかし、弓で擦るか叩くかという手段の違いはあるにせよ、弦を振動させ、それを楽器のフレームをとおして増幅させるという仕組みは同じであるとも言える。アレクサンドル・カントロフのピアノはまさにその盲点を突いてくる。構造的には打楽器的なものであるピアノの音を弦楽器的に響かせるのだ。

アレクサンドル・カントロフ

アレクサンドル・カントロフ(画像引用:静岡音楽館AOI アレクサンドル・カントロフ ピアノ・リサイタル )

それがもっとも明らかになったのは、ブラームス編曲の左手のためのバッハのシャコンヌ(1852)。ブラームスの禁欲的な編曲による部分は多分にあったとは思うけれど、カントロフはこれをあたかもヴァイオリンのように響かせる。単線的な旋律を裏支えする重音。旋律的なアルペジオ。それはまさにヴァイオリンを彷彿とさせる音響世界だ(カントロフの父が著名なヴァイオリン奏者であったことが思い出される)。しかし、そこには同時に、単音的なヴァイオリンには決して不可能な、重音的なピアノだからこそ可能な、しかし、打楽器的なピアノには不可能な、ピアノのフレームを響かせるピアニズムがあった。演奏には使われない右手でピアノをつかむ。まるでピアノと一体化して、自分自身を楽器の一部とするかのように。

しかし、彼の演奏は、有機的というよりも、無機的ではある。モダンピアノのポテンシャルを全開にしたような演奏。低い音域の和音を、楽器のフレームが爆発しそうなぐらいに振動させる。高い音域まで駆け巡るアルペジオを煌めくように輝かせる。指のメカニックの技術が恐ろしく高い。トレモロ(と呼んでいいのだろうか、トリルではなく、音高の離れた2音が交替するパッセージ)の音の粒が驚異的なまでに際立っている。それでいて、個々の音がつねに他の音と響き合っている。楽器を無理強いしている感じがない。力業ではあるが、力押しにはならない。ギリギリまで追い込みながら、直前で踏みとどまる。だから、どれだけ爆音になろうと、そこにノイズは混入しない。これはモダンピアノのスペックがあってこそのものであり、ピリオド楽器には不可能な演奏だろう。

カントロフの解釈は非歴史的と言っていいように思う。しかし、反歴史的というわけでもない。こう言ってみてもいい。カントロフはいまだ進化の途上にあったピアノのために書かれた楽譜から、作曲家さえ予聴していなかったかもしれない(にもかかわらず楽譜に書き込んでしまっていた)未来の可能性を、モダンピアノの性能を解放させることで現前させるのだ、と。だから彼の手にかかると、コンサートの冒頭に置かれたブラームスのピアノソナタ1番(1852‐53)は、ベートーヴェンのピアノソナタに連なるものというよりも――たしかに動機やその展開という意味ではきわめてベートーヴェン的なのだけれど――ショパンやリスト以後の作品であることが明らかになる。ベートーヴェン時代のピアノには不可能であったはずのフレーズや音響が存在感を主張する。音響的にあまりにも豊かな音楽を聞かされると、「これがブラームスなのか?」という疑問も湧いてくるのだけれど、そのあまりの潤沢な響きに納得させられてしまう。

プログラム

プログラム(画像引用:しずおかネット)

プログラムは音楽史をさかのぼっていく。ブラームスに始まり、リスト編曲のシューベルトの歌曲を経て、シューベルトの『さすらい人』で締めくくられる。だからこそ、19世紀初頭のピアノのメカニズムがシューベルトに課した制約と、そこに収まりきらない音楽を書きつけたシューベルトの革命性が、否応なく浮上してくる。シューベルトはここまで烈しい音楽を書いていたのかと、驚かされてしまう。

カントロフはおそらく、技術の卓越性を音楽性に変換できる稀有な音楽家なのだろう。アクロバティックなところでさえ、その物理的な曲芸性には還元されない余剰がある。圧倒的なテクニシャンでありながら、テクニックを手段として奉仕させることができる音楽家なのだろう。

しかし、それほどの音楽性がありながら、カントロフは旋律を歌うことに興味がないかのようでもある。音の推移にたいする感性はきわめて優れている。旋律と和声の同時並行的な移ろいにたいする感性はずば抜けている。にもかかわらず、単線的な旋律、たとえば、右手の一番上のメロディーを歌わせるとなると、不思議なまでに凡庸だ。これを若さ(1997年生まれの26歳)と片付けていいのか、それとも彼の音楽性の本源的な欠落と見なすべきなのかは、難しいラインだろう。

とはいえ、彼のピアノが、ヴァイオリンの代替物でもなければ、オーケストラの代替物でもなく、かといって、ピリオド楽器の真似事でもない、モダンピアノの賜物であることが証明されたのは、アンコールとして演奏されたストラヴィンスキーの『火の鳥』の終曲部分であったことは間違いない。それはオーケストラを思わせるものでありながら、オーケストラを模倣していない。それでいて、ピアノにしかありえない独自の音響を探索しているのでもない。オーケストラの響きを倍音のようにこだまさせながら、ピアノだけが現前させられる独自の音響世界。オーケストラを感じるけれども、「オーケストラであってくれたら」とは微塵も思わされない。

これはおそらく、ピリオド楽器を経由した器楽演奏にたいする、モダン楽器からの挑戦だ。過去の慣習を無視はしないが、過去をなぞることは拒否する。過去にすでに刻み込まれていた未来を現在において顕現させようとする。過去が先取りした未来を現前させようとする。身体的能力がみなぎっている20代30代だけに許された傲慢なスタイルかもしれないし、カントロフがこのスタイルを数十年にわたって続けていけるとも思われない。しかし、だからこそ、ここには何かとても儚く尊いものがあり、ライブで体験しなければならないものがあるように思われたのだった。

(文・小田 透)